BL版 ① 「ロープ」

 

  もはや「GIRL」だけでは・・・

続かないってことなのよぉ。で、「BL版」と銘打ったのは「BOYS LIFE」という意味で一応「LOVE」のみが対応というわけではありません。タイトルは80年代の頃「いいとものテレホンショッキング」内のトークで故佐藤慶氏が発言していた「友達の友達が皆友達のわけがない、でもホモの友達の場合は友達同士じゃなくてもホモなのは間違いない!」という現代だとちょっと問題になるかもというヤツにインスピレーションを得ました。ついでに今回3本連続して取り上げる映画はワタクシ「個人の勝手な決めつけでボーイズラブ呼ばわり」がかなり入ってくる予定ではあるのですが先ほどの佐藤慶さんにしろ、この映画のヒッチコックを始め製作された方々、大半「故人」ですからっ。故人達の「歴史的なカンチガイ」と私個人のどうせカンチガイということで許しておくれ・・・。

 

 ヒッチコックのカラー第一作なのはこっち(評価低くてずっと無視されてたから)

映画冒頭NYの高級住宅街にひときわ瀟洒で壁も上品なピンクのマンションとその通りに面した平穏な人々の日常の風景が映るのだけど、カメラはいきなり対面の建物の締め切った窓からいきなり男の悲鳴、で、室内ではというと首を絞められたオトコの断末魔のアップ。ひぇーと思ってると、二人の青年が登場。黒髪で甘いマスクのフィリップ(ファーリー・グレンジャー)は息を切らしておろおろしてるのにもう一人のブランドン(ジョン・ドール)は窓のカーテンを開け、煙草まで吹かして「できれば明るい日の光の下でやりたかった」なんて言い出す。さあ、今度はパーティの準備だぜ急ごう、家政婦のミセス・ウィルソンが来る前に死体を隠してしまう。この書籍箱の中がちょうどいい大きさだね、そしてこれをテーブル変わりにしてパーティの料理を並べるのさ、面白いだろ? とひたすら強気にまくしたてる。びびっているフィリップにブランドンは「パーティにはカイデル教授(ジェームス・スチュワート)も呼んだのさ、きっと楽しいぜ」フィリップ「えっそうなの、嬉しい♡」で、二人は教授もこの犯罪に誘いたかったよねぇ、なんて話し合うのさ。んもぅ、冒頭シーンは全編「キレっ、キレのボーイズラブ」満載です。フィリップなんて強引に計画を進めるブランドンに対して「それも君の魅力だが♡」なんてとろーんとした目付きで言っちゃうしぃ。ここまであからさまにゲイのセックスについての表現を引き出された上に、「まだ同性愛表現が足りないよね」と英国人プロデューサーにリクエストされたダイアローグ担当のアーサー・ローレンツは当時頭にきて早くNYに帰りたーいって思ったんだそうだ。フィリップとブランドンの会話をよく聞くとまるで「セックスとは周囲の大人と既存社会へのカウンター」みたいに彼らが考えているのが判るのだけど、そういった反社会傾向の若者の役割を振られると、性的マイノリティの人々にとっちゃ何だか不愉快に感じたのも当然かも。そして意外なことに死体の隠し場所についてはなっから書棚箱にあると知らせているのにも不満だったそう。1924年のシカゴで実際に起きた少年事件を英国に置き換えてまず戯曲化し、それを1948年のNYに再度直してまるで「舞台劇」のように撮った映画です。フィルム持続時間が15分程度だったのにそれを無理やり繋げて役者の演技を止めることなくひたすらカメラで撮っていくという物凄い実験的な試みヒッチコックは挑戦したのでした。同性愛がからんだ犯罪なんていう題材の所為かつい最近のヒッチコック研究本でもへんちくりんな駄作扱いで、ずぅっと無視されてたのにここへきてブルーレイ等の発売がされてるのも社会風俗の変化だけではなく、撮影技術のデジタル化が進んで改めて先人ヒッチコックの先進性が評価されているのでは?

 

 アタシ達はとにかく画面に「絡みとかあの時の絶頂とか」を映したいだけなの♡

・・・という困ったノンケのオッサン達(ヒッチコックとプロデューサー)の映画的野望の感覚に舞台中心で活動していたローレンツ先生はツイていけず、でも肝心のカイデル教授役が当初想定していたケイリ―・グランド等でなくセクシーとは無縁のジェームス・スチュワートに決まってがっかりしたそう。しかしヒトのときめく心ってやつは複雑なんですね・・・ただジェームス・スチュワートは「ロープ」の後ヒッチコックとタッグを組んで裏窓 [Blu-ray]とかめまい [Blu-ray]なんていう映画史上に残る傑作を生み出すのだよ。終盤近くにある教授と青年二人との対決シーンだと、スチュワートさんの力強いモラリストの演技に圧倒されます。出演者全員「アノことは曖昧にしたまま」台本だけを手掛かりに個々の演技を作り上げたそうですので(ヒッチコックは撮影時カメラスタッフのことだけに集中し、役者には演技指導せずにとにかく舞台のようにやれって指示しただけだそうだ)監督はカメラ回しながらジェームス・スチュワートの可能性について何か発見したのかもしれません。とりあえず人間には(特に男性には)「もう女でも男でも鶏でもいいからぁ」とばかりにアレについてばっかりが頭の中を駆け巡る時があり、そんな時ヒトは必ずしも断固とした決断や行動が起こせるわけではないしそんな弱い己を克服するために、ニーチェの超人思想なんちゃらにかぶれる青年もでてくる。フィリップとブランドンはそんな若者の代表でなおかつ「合わせ鏡」のようなキャラクターなんですね。フィリップは日々落ち着かない毎日に耐えかねてこっそり田舎で鶏のクビを絞めちゃう自分が恥ずかしくてしょうがないし、ブランドンに至っては殺したお人よしの青年も、その青年の家族や自分の親戚さえも馬鹿にしていて、パーティーに呼んだ同級生も女友達も心理的に支配することによって何とか自分を保っているようなプライド高すぎる生粋の犯罪者です。そんな二人の強力な「悪党の若者」に大人は何ができるのか、実はヒッチコック自身もあんまり自信を持って「こうだから駄目だ」と言える気がしなかったのかもね。結局ジェームス・スチュワートの好演を支えるためにセットとかカラーの色彩に気を配るだけでいっぱいいっぱいだったのかもしれません。

 

 ゲイだって人間さ・・・という最初の映画

ということに結果的になったということでしょう。まず「ロープ」のジェームス・スチュワートが存在しなかったら後のフィラデルフィア [Blu-ray]でのHIV患者役にトム・ハンクスを起用するというアイデアも生まれなかっただろうしねっていうのもあるし(もちろん犯罪者の役柄ではありませんよ。でもフィラデルフィアは広い意味でえん罪を訴えたい為に民事裁判を起こす映画です。)映画が犯罪を描く際に「愛だとか性衝動」だけをポイントに絞ってやってたのが「ロープ」以前というかジェームス・スチュワートに出会う前のヒッチコックだったとすると、「ロープ」以降は犯罪という現象において「人間関係や一般社会における規範(モラル)」に何がどれだけ抵触するのかという問題によりシフトしていったという意味でもヒッチコックにとって転換点となる映画だったのかもしれません。