緑の女 ⑤ 「惑星ソラリス」のナタリア・ボンダルチュク

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  • ナタリア・ボンダルチュク
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原作小説も映画もホントに「過激」

 という意味で言えば、それだけで充分伝説に値するとは思うんですけど。特にラストシーンはスタニワム・レムのソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237)をあらかじめ読んだ人間の方が怖く感じるのではないかな、ある女流作家さんがこの映画凄く怖かったと映画エッセイに書いていたもんね。レムもタルコフスキーも冷戦時代の東欧を代表する天才だってのがイマ時の若者には通じずらいかなあ。しかしこの映画の「緑」とか「海」とかの表現はアタシにとっちゃ2001年宇宙の旅(初回生産限定スペシャル・パッケージ) [Blu-ray]スター・ウォーズ コンプリート・サーガ ブルーレイBOX (初回生産限定) [Blu-ray]とはまた全然ベクトル違うけど小説で想像した通りのSFでございました。1972年にカンヌ映画祭でグランプリを獲って最近ではソダバーグ監督によるリメイク版もありますが、1980年に発表されたジェイムズ・ティプトリー・Jrの短編の中に映画+小説の「ソラリス」双方からインスピレーションを受けたみたいな感じがしたものがありました。(星ぼしの荒野から (ハヤカワ文庫SF)っていう短編集で読めます)映画製作時に原作者レムとタルコフスキーは大げんかになって、タルコフスキーは凄く懲りたんだって。レムの方はレムでタルコフスキーの映画で自分が世界的に有名になったのを終生怒っていたんだという噺が伝わっていますが、この映画がヒットしたおかげでレム大先生の欧米SFをクソ味噌にぶった切った評論もグローバルに知られるようになりました。ま、SFなんていうジャンルに興味の無い映画ファンにはどうでもよい話ですが。ヒロインのナタリア・ボンダルチュクさんはソ連時代を代表する美人女優のようでこのお方の魅力で映画全体がもっているてこともある。

 主人公の妻は自殺したのさ

 そーいうこと。そしてそれをどう捉えて描くかが映画と小説の最大の違いですね。(それでお話についてなんですが)辺境の惑星ソラリスは海と雲に覆われた星、その探索の為に派遣された宇宙ステーション「プロメテウス」の通信が途絶えたというんで、地球から心理学者のクリス(ドナタス・バニオニス)がステーションの調査に向かいます。天体生物学者のサルトリウス、物理学者ギバリャンも一緒、だって「プロメテウス」本体になんかあったかもしれないし、地球型の原初の段階にある惑星だと想定していたソラリスだったんですがどうもそれ自体が地球人類の勘違いなのかもしれない、ステーションの乗組員たちの精神面での健康状態も疑われるしてことなの。特に現代の観客ならばSF好きでなくても「サスペンスフル」な展開を期待するわけですが、この映画主人公クリスの回想する「何故に自分の妻が自殺したのか理解できず、さらに故郷に一人娘を残し旅立たなきゃいけないのが辛いよ」シーンが途中重くのしかかるので、どこまでも深緑が美しいソラリスの海とともに眠気一歩手前の瞑想状態に陥ってしまうことでしょう。陰鬱な気分のまま「プロテウス」についたクリスたちでしたがステーションの内部は特に異常もないのに乗組員は誰もいなくてがらーんとしている。そして気が付くとクリスの部屋に自殺したはずの妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)が出現しているのだっ。

「文学的見地」と「科学的見地」の違い?・・・そんなふうには感じなかったけどな

 小説版ではクリスと一緒にプロメテウスへやってきた天体生物学者と物理学者も同時に強い「幻覚」に見舞われ、しかもそれはホントに実体を持って当人たちに迫ってくるので皆それぞれ精神に異常をきたしてくるという展開が主人公クリスの目を通して描かれていくのでよっぽど映画的にもミステリアスでサスペンスしてます。確か天体生物学者さんの方は「トンデモナイ異形の生物」にあっさりとやられ、物理学者さんにはヘンテコなちっちゃいサルみたいなのに付きまとわれる・・・だったと思う。クリスより物理学者ギバリャンてヒトはもっと毒舌家でプライド高いのにクリスに何が起こったのか詳しいことは絶対に言わないんだよね。(そしてクリスも自分の妻が現れて当惑していることを隠してる)ネタ晴らしすると惑星ソラリスの「海」というやつはそれ自体に高い知性を備えていてヨソの星からやってきた地球人たちの持つ「情報」に好奇心いっぱい、地球人たちの脳のなかに隠された「想念」てやつを彼らの目の前に出して見せてくれちゃうのさ。レム先生的にはソラリスは各人達の頭の中で「もっとも囚われている存在」を具現化しちゃうようで、それにより人間の感情が持つ「性欲」「恐怖」「憎悪」といったかなり原始的な衝動を表現しようとしたみたい。だから小説版のハリーはどっか「南極生まれの朱美ちゃん」みたいな描写をされていて、それこそ「こっ恥ずかしい」クリス博士は必死に妻を隠そうとするっていう(笑)部分が読んでいて興味深かった記憶があります。対するタルコフスキー版のハリーは登場してから一貫して「ここはどこなの? 私はどうしてここにいるの? 確かにアナタ(夫)とは久しぶりに一緒にいるけど」というような芝居をきちんとして、それでいてあっという間に息絶えます。レムの批判に対して「自分はSFじゃなくて罪と罰みたいな文学のつもりで監督した」とタルコフスキーは反論したそうですが、私にはレム版もタルコフスキー版もそれなりに科学的ちゃあ科学的だし、科学っぽく無いっていえばどっちもどっちかなぁ・・・てのが感想ですかね。あえて言うとレム先生はポーランド人なのでカソリックだし、タルコフスキーは宗教観からするとおそらくギリシャ正教ですから、二人の宗教観の違いがお互いの生理的嫌悪感を生んだのかも。まあ、映画唯一の華ともいえるヒロインがレム版のように○○ワイフのように描かれなくて本当に良かったとは思いますけど。(笑)

 とにかく「最凶」の緑映画

 映画版ではハリーがいきなり死ぬところから一気に不穏な調子に変わっていきます。ハリーはプロメテウスに登場した時から苔のような黄緑がかったワンピースで登場し、死ぬときは何故だかコカコーラの空き瓶みたいなビニールの宇宙服?みたいなのを着ているのが凄い印象的。それからクリスの自宅も濃い緑に覆われた田舎の一軒家、そっから宇宙勤務に出るために「未来都市」へ長々と移動するシーンには日本語でしっかりと「グリーン・キャブ」と書かれた未来の自動車(という設定の)が1970年代当時の首都高速を疾走していくんだよ!! ホントいうとタルコフスキーさんは大阪の未来万博を撮影したかったんだけど、政府の許可が下りなくて、それでも粘ったあげくの「未来社会における都会の夜景シーン」だったのさ! 最後にカッコよく現れる「マツダ」のロゴも確認してね。まあ中盤のグリーンキャブに呆れた方も、ソラリスの設定のネタがばれてもラストシーンはイマ観てもどうやって撮ったの・・・CG無で というくらい驚愕すること必至だぜ!