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近距離恋愛の女③ 「ピアノ・レッスン」の ホリー・ハンター

 日本公開当時にちょうど松竹シナリオ研究所で勉強してたの

 だから個人的に思い出深いというか、人によってこうも映画の観方が違うのかということに驚いたこたぁ無かったね。だって女性監督による文芸チック(もっとも話は完全オリジナル)な恋愛モノで、女の観客が生理的に嫌悪する映画にはまず当たらないと思うじゃない? でもこの映画のなかの恋愛沙汰そのものをかなり気持ち悪いといって全面的に拒否している友人がいました。恋愛映画はとにかく美男美女カップルでないと駄目という向きには確かにホリー・ハンターハーヴェイ・カイテルの二人が主役じゃねぇ・・・というのもありますが、件の彼女にしてみればカンヌのパルムドールアカデミー賞の主演と助演女優賞まで取った話題作だし自分もシナリオ勉強している身だし、と本人かなり我慢して最後まで観たようなので「小さい島で他に相手がいないからってお互いにくっつくのが厭、なんでこれがまっとうな恋愛なのさっ」と決めつけられるとそれなりに説得力を持つのでやっかいなものなのよ。で、当時シナ研の講師の一人で田村猛先生というお方(故人、主に初期の大島渚映画を支えていた知っている人は良く知っている脚本家)は「ピアノ・レッスン」が大のお気に入りで、映画の冒頭浜辺にうち捨てられたピアノのショットに「これぞ、映画だよ」と絶賛しておられました。その横で「ピアノ・レッスン面白くないじゃん」の彼女曰くバカか、あんなトコにピアノ置いたら錆びるだけだっ(そりゃそうだけど)とのこと。本当のこと言うと脚本の段階では浜辺に捨てられて錆びちゃったピアノをジョージ(ハーヴェイ・カイテル)がわざわざお金払って直してあげるエピソードがあったのですが、劇場公開の際そのシーンはカットされておりました、念の為に言っておくけど。(シナリオ本が出版されていたので確認済)

 近距離なんだか、遠距離だったんだか・・・

 舞台は19世紀のニュージーランド、農場主スチュアート氏(サム・ニール)の元にはるばるスコットランドから花嫁のエイダ(ホリー・ハンター)がやってくる。エイダは結構いい歳だわ十歳の娘フローラ(アンナ・パキン)まで一緒にやってくるのに、当の本人はこれが「初婚」だわおまけに殆どしゃべらないでピアノばっか弾いてるわという女。確かある時から一切しゃべるのを止めたらしいんだけど、映画の中でエイダのナレーションが一方的に説明しているだけなので詳しいことはワカンナイ。スチュワート氏はこんな彼女のことを一目みて「俺の足元みてヒドイの押しつけやがって」じゃなくて「キレイ、好き♡」になっちゃう。遠い異国で一人ぼっちで開拓してると生まれ故郷からわざわざお嫁さん来ただけで嬉しくなっちゃうんだね・・・でもエイダのピアノのことは興味が無いのでほったらかし。エイダはひたすら「ピアノ持ってきて、ピアノ無いと生活できない」とそれなりに訴える(というか娘のフローラが殆ど代弁する)けどスチュワートは聞いてくれなくてキィーッて怒っているエイダのもとにやってくるのが、ジョージという妙な男。彼はマオリ族とくっついてばかりで開拓民の中でも浮いてます、そんな彼がエイダのピアノを拾ってきて「俺にピアノを教えてみろ」と迫ります。エイダはあくまでも一人でピアノを弾いていたかっただけなのですが、ジョージに教えないとピアノ弾けないしねぇ・・・ということで二人の距離はどんどん縮んでいってとっとと一線を越えていきます。フローラが怒っても、スチュアートが嫉妬のあまり無茶苦茶なことしてもとにかく動じないし、マイペースなんだよね、このエイダって女は。で、公開当時はそのヒロイン像に皆びっくりしたのだ。

世界十大小説「嵐が丘」チックな恋愛、「嵐が丘」主人公ヒースクリフみたいな男性像

 「レザボア・ドッグ」以降90年代におけるハーヴェイ・カイテルの活躍というのはもの凄くて、出演した映画は今現在でもほぼA級の評価を受けている作品ばっかです。「ピアノ・レッスン」もそんなカイテルの90年代の代表作のひとつ。なんだか「十年映画出たら十年は休む」とか自分で決めごとでもしてんのかな? と私は勝手に判断しております。ごく最近の「グランド・ブタペストホテル」に脇役スターの一人で出演しておりましたがそういや00年からぱったり顔観なくなったなあぁ・・・と思ってたら出てきたんだよね。70年代にロバート・デニーロと一緒にブレイクしたのに80年代の映画でも殆ど観たことない、「出ずっぱりデニーロ」とは差をつけなきゃあってことなのかな。ジョージという役は嵐が丘に出てくるヒースクリフみたいな男ってヤツで特に欧米の映画ファンならお馴染みのキャラクターのタイプ。野蛮だけど何故かそこが女にモテモテという人ね。「嵐が丘」にしろ「美女と野獣」にしろ元の原作者は女性で、しかも女性作家が憧れるヒーロー像が乱暴な男だったりするもんで欧米の男性陣にもお気に入り・・・小説の人気以上にやたら昔から映像化されておりました。日本映画だとそういうことは決して起こりません、マッチョな男は恋愛映画の「核」にはまずならないからね。当時劇場では一人で観に来ていたオッサンがベッドシーンが始まるまでは寝ていて、近くにいた主婦グループが怒って噂していたのを映画の回が終わってから聞きつけた覚えがありますが、多分そのオッサンにはお上品すぎた映画だったのでしょう。肝心のベッドシーンの方は案外普通で古典的、西洋絵画をエロい眼線で鑑賞するスキルが無い方にはなかなか興奮するまでには至ることはないもんね。それよりもジョージがエイダが脱いだ下着かなんかの匂いを「エへへッ」って笑いながら嗅いでるシーン(エイダに見せつけるんだよ)とか、エイダがピアノを弾いてる傍からスカートめくって彼女の靴下に空いた穴を指でなぞるとか・・・ぷりみてぃぶ&ガキんちょ臭い振る舞いに付いていけるかどうかがキモではないかな。女性監督で初のカンヌのパルマドールを受賞したジェーン・カンピオンにとっては女性映画というよりも母国ニュージーランド人にとってのアイデンティティを探るという映画に結果的になったんだぁみたいなコメントをしていました。ヨーロッパだと因襲を打ち破る近代的個人主義+ぷりみてぃぶな衝動って別に矛盾しなくてそれが開拓精神っていうのに繋がったんでしょうけど、日本はずっと鎖国している間、地味に個人主義や近代化を模索している国だったもんですから「嵐が丘」や「ピアノ・レッスン」みたいな物語は生まず、結局八つ墓村 [DVD]となっちゃうのだと個人的に考えております。今日本で「嵐が丘」みたいなお話を本気で書きたいなんて考えてる女流作家はおそらく桜庭一樹さんくらい。で、シナ研で一緒だった件の彼女は三代以上続く江戸っ子の家系でしかも都心の一等地にビルいっぱい持ってる地主の家の御嬢さんだったので「ピアノ・レッスン」のような恋愛は選択しが無い中で性欲だけでやっている話以外の何物でもなかったようです。これが現代の日本人のなかでは実は大多数の意見かもね。田村猛先生は大島渚監督の十年以上前になくなっちゃったし、件の彼女は私を追い抜いてさっさとプロのライターになっちゃいましたしね。