だって僕らはゲイじゃないんだ② 「デッド・マン」 (95)

デッドマン [DVD]

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一見するとゲイ要素が限りなく「ゼロ」に近いようなテイストなんですが・・・

これも公開当時かなり話題になっていたことだけは覚えていますが、劇場では観なかった、ひょっとしたらこの頃が一番お金も暇もなかった頃だったかもしれない。殆ど映画館に足を運ばなかったか、映画料金タダで松竹系の映画を観られた時期だったのでそれ以外のミニシアターに行くことなかったんだよね・・・というだけの印象でした。たまたまDVDで観とこうかという時に、あれれ? って思ったのはカニバリズムの殺し屋(ランス・ヘンリクセン)と森に野宿する三人組(イギ―・ポップとビリー・ボブ・ホートンとジャレット・ハリス)が登場していたからです。主人公ウィリアム・ブレイクジョニー・デップ)を追う殺し屋のヘンリクセンは邪魔だと思う男どもを次々とファックするがごとく喰っちゃうし、隠れるように森に棲みついている3人組の1人は何故だか女装していて(そして何故だか大物ミュージシャンのイギ―・ポップが演っている)、皆でローマ帝国の話題で盛り上がっているところでウィリアム・ブレイクとネイティブアメリカンのノーボディ(ゲイリー・ファーマ)に撃たれて3人とも死んじゃう。このイメージが強烈で、いわゆるLGBT系の人間の嗜好と暴力で男も性犯罪の被害に会うこととはこんなにも違いがありますっということがはっきり示されている映画になっているのが解かります。「アメリカにおける暴力とは何か」という題材(モチーフ)を正面から取り上げて、ジム・ジャームッシュの映画の転換点にもなりました。

 ハリウッドのいかにもジャンル映画の「コラージュ」があれこれ

 まず冒頭、東部の会計士(になったばかりの若者)であるウィリアム・ブレイクが就職先を求めて西部へと向かう列車に乗っているシーンから始まります。ついうとうとと寝入っているうちに列車の窓の外の景色や車内の乗客のメンツがどんどん「ガラが悪く」変化していくので、ちょっとひ弱な都会人青年のブレイクはビビッてしまうし、いつの間にか相席になった同世代の機関士の若者(クリスピン・グローヴァ―)と世間話をする羽目になるのですが、どうも「話がかみ合わない」わ、機関士がいきなり窓から拳銃を取り出して列車の外で走っているバッファローめがけて撃ちまっくっちゃうわで辟易しながら、紹介状をたよりにディッキンソン工場へとたどり着くのでした。で、工場に着くと「あんたを雇うなんて話は聞いてない」で追い出されます。・・・そんでもっていかにしてその後ブレイクが撃たれた拳銃の玉を身体に抱えたままデッドマンという呪いに罹り、ネイティブインディアンのノーボディに助けられて森林の中をさまよう顛末にいたるのかは書くのメンドクサイので映画観てください。そこまでのくだりで「何が何だかサッパリ分からん」という方は西部劇自体にあまり慣れていないかもしれませんが、「おーっといろんな西部劇のパターンがいきなりヘンテコに凝縮されてきたーっ」と感じる方はかなりの通ってことでしょうか。(そう、ちょっとだけ自慢したかったの)東部のジェントルマンが西部の荒くれ野郎にバカにされて反撃できるか? というパターンや西部の町にはほぼ汚い系の男と娼婦しか存在しないみたいになっているとかさ、でその手の「娼婦なんだか淑女なんだか」のお姐さん達を男たちは婚約者(フィアンセ)と呼ぶのだよ。ここではなんだか60年〜70年代までの西部劇とジョニー・デップ当人が婚約解消したばっかりという事情がごっちゃになったみたいです。ブレイクと出会ってすぐに死んじゃう造花売り娘がなんか元婚約者ヴィノナ・ライダー似の女優さんなのがご愛嬌で、彼女を撃って殺しちゃうのは、なんとここでもディッキンソンの息子役演っているガブリエル・バーンだったりします! 主人公名のウィリアム・ブレイクというのも有名なイギリスの詩人と一緒らしいですが、詩人のブレイクさんは左翼系のポップ文化人たちにはイケてるアイコンの一人らしい、というのがウィキペディアに載っていました。
・・・あとこれは蛇足かもしれませんが、ランス・ヘンリクセンなんて役者さんが最凶の殺し屋を演っているのはやっぱ彼がエイリアン2 [Blu-ray]から二代目アンドロイドのビショップ役で有名だからなんでしょうか?

 ハリウッド西部劇の「時代考証あれこれ」

 1950年代までの西部劇の考証っていうのは割といい加減で荒唐無稽だと一般には考えられています、そして一番ヘンなのが女性の扱いについて。ジム・ジャームッシュの師匠にあたるニコラス・レイ監督の名作西部劇で「大砂塵」巨匠たちのハリウッド 生誕百周年 漂泊の反逆児 ニコラス・レイ傑作選 DVD-BOXっていうのもあるんですが、主演のジョン・クロフォードはもうほとんど砂漠みたいな荒地の町にカジノ兼酒場のでっかい店を自力で建てた女主人、どうやってそんなこと19世紀のアメリカでできたんかいっ、と突っ込みどころ一杯です。それが70年ごろになると「西部の町には家族を失くした堅気の女なんてのはいない」ということに急になっちゃって、だいたいヒロインは皆娼婦(ギャング映画の情婦の扱いですらないのさ)でヒーローは暴力型アウトローが中心となり、結局西部劇自体が徐々に衰退していった要因の一つになったんじゃないかと個人的に考えておりやす。「デッド・マン」も70年代以降の西部劇にならってはいるのですが、70年代アウトロー西部劇と違うのは「疲れたヒーローを癒してくれる女は誰もいない世界」に生きているのでありましてブレイクをはじめ殺し屋たちにしろディッキンソンJrにしろ、娼婦という囚われた身のごく少数の女性たちを争って自ら喪ってしまい、残された男たちで「殺るか殺られるか」&「犯るか犯られるか」の暴力沙汰を繰り広げるばかりです。男女がほぼ一緒に住んできちんとしたコミュニティを作っているのはブレイク達が治療のために立ち寄ったネイティブ・アメリカンの集落だけで、彼らは開拓民である白人とは殆ど交流しません。また殺伐とした「女のいない世界」というのが好きでわざわざやってきたのが例の「森の三人組」なのだったりします。彼らは皆もともとはかなりの教養人で都会で十分豊かな生活ができるはずなのですが、都会で一人前の男性としてやっていくには結婚制度からは逃れられないわけで文明生活を捨て自然がいっぱいの西部で隠遁生活を送りたかったようです。なのに同様に弱い立場のマイノリティであるブレイクとノーボディに殺されちゃう。最初は三人組にブレイク達はご飯もらったりしてたのにも関わらず。ジャームッシュのファンはこれを「隠されていた19世紀西部の現状を描いた」と持ち上げるのかもしれませんが、70年代を代表するサム・ペキンパーの映画(例えばディレクターズカット ワイルドバンチ 特別版 [DVD]みたいなヤツ)だって結構都合よく考証の「イイとこ取り」をしてるからこそああいう映画になっているし、「デッド・マン」だってそういう西部劇だとは思いますけどね。「西部劇」も「日本の時代劇」も結局現代社会のカリカチュアでしかないんだし、だから現代劇じゃないジャンルモノは一段落ちると考える人間さえも世の中には結構いるんだかさ。私「時代劇研究会」で勉強してたからその辺の話題はよく聞かされたもん。

 良き隣人になれるかどうなかなぁ? ・・・「だって僕らはゲイじゃないんだ」から

 「デッド・マン」は現代アメリカにおけるの「暴力」の実態については西部劇の形を借りてダイレクトに描いているといっていいんだとは思うのですが、じゃあジャームッシュ御大にとってLGBT系の性的マイノリティについてはどうなの? ということについてはやや微妙って感が無きにもあらずですかね。右翼っぽい系の方々とは違って性的マイノリティー市民たちとは確固とした距離感を保てるのが今やリベラル&左翼系文化人の一番の強みだったりするのかもしれません。が、なんか「ゲイ支持」とも「結果として反ゲイ」とも受け止められなくないかなあ、という訳で何かが曖昧だけどよく考えたら凄んごい怖い映画。つい今井正武士道残酷物語 [DVD]とか思い出しちゃったよ。