トンデモ悪女伝説② 「浪華悲歌(ナニワ・エレジー)」の山本五十鈴

浪華悲歌 [DVD]

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 トンデモな「日本映画の巨匠伝説」の溝口健二

 溝口健二は日本映画の「ビック4」といわれるくらい海外では日本映画を代表する存在なんだそうですが、私ぐらいの世代の映画ファンが注目し始めたのは案外最近じゃないでしょうか。実際有名な「雨月物語」「山椒大夫」などの後期の作品はテレビでも観てもピンとくるには相当「映画の教養」が必要な気がして私には感興がわかなかったりします。おまけに「ロケに出て空に気に入った雲が現れるまで撮影しない」「遠くの電車の音がウルサイからと言って撮影中は京都の町の電気止めさせた」「そのくせ製作費の一部を自分の懐に入れた」・・・そんだけのことしてるんだから有難がって鑑賞しようと思うほどこちとらスノッブじゃねぇや、ガイジンさんでもないしって気分になるので正直敬遠している部分がまだあるかも。このDVDも発売されたのが、2006年ということで他の小津、成瀬作品と比べても最近といっていいでしょう。(映像特典に先日亡くなった新藤兼人監督のインタビュー解説があって、インタビュアーが松竹のシナリオ研究所で教わった鈴木先生だったので少し懐かしかったです)この映画ではまだ有名な「ワンシーン・ワンショット」なるものも存在していませんが、監督自身が多少初々しい部分が残ってるせいか、いまどきの若人でも結構面白いかもよ。


 モダンが似合う都市、大阪

 よく考えてみたら大阪の方が映画的にもガイジン受けすることが多いかもしれませんね。東京・京都あたりは伝統とハイテクが共存するといわれるけれど、なんか「泥臭いアジア」の部分が残ってるのが興ざめというのか、無秩序な部分を晒しているだけだったりする。私大阪には実をいうと行ったことがないのですが、割合道路は広いし(東京ではちょっとでも下町に入ると迷路のようになっている所多し)住宅街の周辺でもなんか「えらくスッキリ」している、とTVを通して感じることが多いです。住民の考え方が合理的で、無駄な金は使わない精神あふれる街作りってやつがガイジンにも解かりやすいアジア的な猥雑さを産むのでしょうか、リドリー・スコット監督は大阪がえらいお気に入りでかの名作ブレードランナー ファイナル・カット (2枚組) [Blu-ray]では未来都市のイメージとして大阪の街を参考にしたり、松田優作の遺作ブラック・レイン デジタル・リマスター版 ジャパン・スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]でもロケは大阪でやりました。溝口健二にしても大阪出身ではなく東京の浅草生まれで関東大震災を逃れて以後関西に映画作りの拠点を移したという人。「浪華悲歌」では当時の大阪の市街ロケとアールデコ調の屋内セットを組み合わせて撮っているので戦前の日本ってこんなにモダンだったのねとか文楽の舞台背景って歌舞伎のと比べるとサッパリしているところがオシャレで可愛いなんて素直に思えるから不思議です。そしてなんといっても凄かったのが、ヒロインのアヤが金持ちオヤジに囲われて住むアパートメントを行き来するトコ(アパートって略しちゃ失礼なくらいのカッコよさ)の描写でしょうか、オヤジが妾に会うために階段を登って行って、部屋に入って、アヤに会うまでのリズムがとんでもなく超いい感じなんです、何故というとその間に存在するはずの壁とか窓とか無いものとして画面からすっ飛ばされているから!だからなんですが、当時の人々はそれこそ「トレンディ」と感じたらしく映画は大評判だったらしいです。ですがそのなかには・・・ありえねぇ、カッコ良いからってそんな現実感(リアリティ)無視なシーンにしちゃダメでしょ、ってゆうかこんなこと二度とできなぁい・・・などと観客として観た当時の映画人の中には悩んじゃった方もおられたろうと推察しますけども、小津安二郎とかね。

酷薄なまでの対比(コントラクト)の妙ってヤツかも

 溝口健二は幼いころ父親が事業に失敗して借金をこさえ、一家の生計は主に芸者勤めに出て、やがて華族の主人の妾から正妻にまでなったお姉さんが支えていたそうです、だから「浪華悲歌」の背景には自分の自伝的な要素が色濃くあります。彼自身は甲斐性なしの無気力な父親は大嫌いだったみたいで、この後の女性映画でもアヤの父親のような「無気力で愚痴ばっかり言う」タイプのオヤジが続けて出現するのですが、そのダメ親父がいたせいか映画監督の素養を作る上でかなり有利な環境に恵まれる良いコトもありました。お姉さんのコネで溝口は思春期の大事な人格形成時期に日本画家の小僧さんなれて、「古典絵画の教え」を直に受けられたからです。当時は日本でも欧米でも印象派以前の絵画の教養を本格的に学んだ映画作家といえば、溝口しかいなかったのです。「写真」の発明以前の絵画というものは「一枚の絵」のなかに劇的なドラマがあったり、その後の絵の中の登場人物についての将来の暗示があったり、とにかく一枚の絵の中に物語がきちんとある、ということが、日本でも西洋でも当たり前のことでした。だから溝口にとってはワンシーンが一つを決まった枠に収めようとするのはごく自然な創造であったろうし、観客に物語を伝えるためにもより理解し安いのではないか考えたんではないかと思います。映画をよく観ると細部にいちいちびっくりするのですが、島田曲げをゆったアヤと彼氏がアールデコな喫茶店でレモン・スカッシュを飲むシーンから、最後の警察に二人捕まる顛末までの無残さ、犯罪を犯して実家の家族に追い出される時に皆ですき焼き食べてアヤに「お前の食べるすき焼きはない」的な態度でアヤに文句言うとか(ひどーい)、とにかく酷薄なまでの対比の表現っぷり、それも芝居や物語構成の妙だけでなく、大阪の街の表現(モダンな近代建物とアヤの実家の惨めさ、橋と川下のごみ溜めの表現など)や小道具にいたるまで完璧に表現されてるので、あざとくて却って嫌味に感じる人もいるかも。特典の新藤監督の解説では東京出身の溝口がいかに関西文化や関西人のキャラクターについて新鮮に驚いた経験がこの映画に活かされているかということを説明してくれます。こういっちゃ何ですが確かに私自身も特に「大阪人」については大阪発の人情こてこてドラマよりも溝口の映画に出てくるハードボイルドな大阪人の方がリアルに感じたりします。大阪に行ったこともないのに、独身時代は電話応対の仕事で大阪人と延々とバトルした経験がやたらとあったからです。