ファムファタールな女⑧「いそしぎ」のエリザベス・テイラー

 

 

 かつて美人と言えばエリザベス・テイラーだった

 私の幼少期に正統派の美人の代名詞といえばエリザベス・テイラーでした。この他にお色気美人(マリリン・モンロー)とかオシャレ美人(オードリー・ヘプバーン)、きんぱつ美人(カトリーヌ・ドヌーブ)、ワイルド系美人(ソフィア・ローレン)、マニアックなオジサン御用達美人(マレーネ・ディートリッヒ)・・・このまま延々と続きそうですが、こういう議論のなかに決して日本の女優が登場してこなかったのが私の小っちゃい頃の、そして90年代のポストバブル時代までの美人談義の特徴でもありました。これは何故かというと第一に「美人の基準が欧米」という圧倒的な価値観に戦後日本人がスポイルされ続けた結果でもありますが、決してそんな単純な理由だけではなく私の物心がついた時から本格的にテレビではアイドル全盛期が始まり、日夜「たいして可愛くもない娘」が「可愛い娘」を何故か追い抜いて行くAKB総選挙状態が繰り広げられていたものですから、「一体どういうルックスが美人というのだろうか」の議論が成立しなかった、無理やりしたら揉めてしょうがないじゃんというのが本当のところですかね。なのでポストバブル時代に突如沸き起こった「美人論」ブームでは「美人は世間からどのように扱われるものなのか、もしくはこういう扱われ方をされる人こそ美人」という論点で収束されていきました。平たく言うと「美人は皆にチヤホヤされて贔屓されるから人生至るところで得をする」か「美人はいろんな人間の欲望や嫉妬にさらされるので、可哀想」かのどっちだろうか?って議論ですね。で、わたくし自身の意見では美人というものは「人生で最も美しい時期には権力者のポケットに入っているので、下々の者はそもそも美人とお近付きどころか、チラ見ぐらいしかできない」てやつです。十代の時からオンナばっかりの学校や職場と縁があって、片方で脚本の勉強がてら業界っぽい人々を中途半端に知った経験から導きだした結論なので、これまで他人に言う機会もなかったのですが、エリザベス・テイラーの生涯を考えるとまさにドンぴしゃじゃないですかぁ、やったね。


ハリウッド一の美女はレンタル女優

 エリザベス・テイラーは少女期から17年間映画会社MGMの専属スターで、1930年代ハリウッドの「子役スター全盛期」には美少女アイドルとして一目置かれる存在でした。ジュディ・ガーランドディアナ・ダービンシャーリー・テンプル等彼女と同時代の十代の女優達は「どっか隣の女の子」にすぎない容姿だったてところが、「とびきり可愛い娘だとあんまり可愛いくない娘たちの中では、浮いちゃって今一人気でないものさ」のアイドルの法則にぴったりと当てはまりますね。なのでエリザベス・テイラーは己を差別化するためいち早く大人の女優にイメージ・チェンジを遂げたのでした、そのおかげで恋多き女とか不倫好きとか宝石マニアなどと陰口をたたかれる結果にもつながるわけですが。彼女の20代の映画を調べていくと驚くことに、彼女の代表作ほど専属契約してたMGM製作の作品じゃなかったりする。「陽のあたる場所」「巨象の道」はパラマウントジャイアンツ [DVD]はワーナーブラザーズ、「去年の夏、突然に」はコロンビア、子役時代からあっちこっちの映画会社にレンタルされていたことを考えてもMGMがエリザベス・テイラーの完璧な美貌を「いかにして上手く金に換えるか」戦略を練っていたとしかいえませんね。美人の使い方は映画といえども結構限定されるもので、一つの会社でエリザベス・テイラーの為の企画ばっかりやる訳にはいかない、でも完璧な美人の女優が必要な映画というのはどこの映画会社の企画でも必ず一定の間隔で存在しますから、女優をライバル会社に貸してレンタル料もらえたらラッキー映画に投資しないのにMGMの懐にもマージンが入るかも状態・・・「バター・フィールド8」の頃にはさすがのエリザベス・テイラーもキレて「こんな映画出たくなかった、大っ嫌い」と騒いだもんだから、彼女にオスカー(主演女優賞)をあげて業界皆で「君は昔っから気立ての良い娘だったじゃない、怒ると美人が台無しだよ」って宥めたのかなあ、ひょっとして。


 「あだると」な男心

 さて長い間権力者のポケットや金庫のなかで厳重に保管され、たまに見せびらかされていた彼女ではありますが、さすがに人間は宝石とは違うので気が付くと「だんだん鮮度が落ちてきた」になってしまいます。そこでようやく権力者はちょっと鮮度が落ちた美女に自由を与えるのですが、これは最近流行りの美熟女マニアにすれば「ダメになる寸前の熟れた果実ほど美味い」なのでそんな美女が下界に下りるとにわかに色めきだすオッサンたちに取り囲まれてしまうのでした。今回DVD化されていないのでわざわざ「あだると・えんたーていめんと」の張り紙がある画像を選んでみましたが、「いそしぎ」って全編少しトウがったったシングル・マザーの美女(エリザベス・テイラー)に神学校の校長(リチャード・バートン)をはじめとする中年男どもがやたらと言い寄ってきてその顛末までを描いているお色気メロドラマ・・・じゃなくて大人のおとぎ話っていうことにしときましょう。それ故か若く潔癖な年頃の女性がこの映画観るとかなり腹が立つと思うし、若者が観るとオッサンとオバサンのドロドロ模様にひきます。でもそうしたヤングの皆は一方で「オンナにとって美人とは幸福なの?不幸なの?」ていう素朴な疑問も抱えてるはずなので、「いそしぎ」のなかのヒロインが語る美女の過去と彼女の抱えてるトラウマの話などは参考になるのでは。十代の頃から「私いまに男たちの慰みものになるんじゃないかって怯えてた・・・」てんな大げさな、10代のエリザベス・テイラーだってそんなこと考えてなかったって絶対!という突っ込みを入れたくなるセリフの数々がさらにひきますね。なのに「男のスケベ攻撃にあっては可愛い娘はそんなふうに傷つくに決まっているのだぁ、可哀想に」というベテラン脚本家ダルトン・トランボの確信はそんな反論ごときではゆるがないのさ、困っちゃうんだけど。女子校育ちの人間から言わせて頂きますと美人さん程、「生来の素直さ、勤勉で真面目、常識をわきまえた思考」がお顔に表れているものなので社会人になるや優等生街道をまっしぐら、ついでにお偉いさん方の気に入られちゃうので彼女たちはお世話係として日夜お偉いさんの薫陶を受け続け、下界の若いチンピラどもとは当然接点もなく立派なキャリア&ビジネスウーマンに成長する美人が圧倒的に多いのですが、そんなの言ったところで男どもの認識のギャップは埋まりません、かくも美人を巡る環境というものは果てしなく面倒くさいのであります。


 さようなら僕たちの美少女よ

 「いそしぎ」の監督はヴィンセント・ミネリ。MGMでミュージカル映画の名作をいっぱい撮り、エリザベス・テイラーと同じくMGMでアイドルだったジュディ・ガーランドの元夫でもあります。以前十代のエリザベス・テイラーが出演した「若草物語」を撮ったこともあるせいでしょうか、なんとなくこの映画の彼女には美少女アイドルの残像が残っているような気がしてしまいます。夕暮れに浜辺で一人膝を抱えて座っている姿をロングで映していたり、リチャード・バートンチャールズ・ブロンソンが喧嘩しているのをテイラーが止めに入ったりするシーンを観れば、観るほど「まるで80年代の日本のアイドル映画みたいじゃ」な気分になり一体これのどこが「あだると」?って首をかしげたくなりますが、今どきの日本のオッサンたちだって朝ドラ「あまちゃん」が大好きだからしょうがないか。
 ファースト・シーンとラスト・シーンが象徴的というか、インパクトが凄くてファーストでは海岸からいきなり天国のように美しい滝が現れてテイラーの息子役の少年が滝の水を飲もうとするキレイな小鹿を銃で打っちゃったりするところから話が始まるし、ラストではテイラーとの不倫に終止符をうって一人旅立とうとするバートンが浜辺で息子と遊んでいるテイラーをジトーっと見下ろすのがヘンです。監督も主演女優も家族的な雰囲気のあるMGMでずっとキャリアを重ね、片方でいろいろと苦労させられた経験があるので「君もこれで本当にMGMは最後なんだね、いろいろあったけど今度こそ幸せになってね」という万感の思いがスタッフにもあるのかもしれません。しかしそれ以外にも「こんな鳥小屋みたいな家住めるのかい」みたいなセット、テイラーのなんだかよくわからないファッション、ブロンソンの普段見られないような脇役ぶりなど見どころはたくさんあるのですが、この最初と最後の緊張感あるシーンのおかげでそれらが吹っ飛んでしまうくらいでありました。