ファムファタールな女① 「裸足の伯爵夫人」のエバ・ガードナー

 ファムファタールとは「宿命の女」 

 私が初めてファムファタールなんていう言葉を知ったのは山田宏一の名著映画的な あまりに映画的な 美女と犯罪 (ハヤカワ文庫NF)からです。そこでも気合いの入ったプッシュをされていたのがこの名作メロドラマ(かの淀川長治センセイも日曜洋画劇場の第一回放送映画に選んだのもこの作品なんだってさ)なのでエバ・ガードナーよりもリタ・ヘイワ―スの方がハリウッドにおいてのステイタスでは多少各上になっているとか、最近知りました。読んだときはまだ洋画の名作なんてそれ程お手軽にお家で観られなかったので、山田宏一の文章の名調子に乗せられて、まだ観たこともないのに、昔のハリウッド女優は華麗で良かったねぇとなどと勝手に思っていたものです。


「宿命」というからにはなにかを背負っている

 何でもファムファタールっていうのは「彼女に出会って魅せられた男の人生の運命を変えてしまう」だそうな。という訳で主人公のマリア(エバ・ガードナー)はマドリードの界隈ではちょっとだけ知られた売れっ子ダンサーで、本人もその環境に満足していたのにも関わらず、ハンフリー・ボガード演ずる映画監督に説得させられてハリウッドの女優へと変身します。彼女ははじめっから品格のある美人で、みんなが聞いたらビックリするような大金持ちや業界のお偉いさんたちに対してもほとんど物怖じしません。「映画界の内幕を暴く」というのがこの映画の一つのウリなんですが、スターになるような美人だとこういうタイプが実は多いというのが、内幕ものとしてはリアルな表現かもね。実際のエバ嬢のほうはとても映画のヒロインのようにたった3本の映画出演でスターというわけにはいかず、下積み時代が結構長くて最初の結婚相手が当時のアイドルスターのミッキー・ルーニーだっていうんでまず有名になったヒトです。いかにもラテン系という顔立ちは彼女のお父さんがネイティブアメリカンとの混血だったから。

 で、下積み時代アメリカ南部訛り払拭に苦労したエバ・ガードナーがこの映画で体現しているのが「戦後疲弊して新しいパラダイムを模索しているヨーロッパ」てやつですね。そう考えるとタイトルの裸足の伯爵夫人というのはすっからかんになってもプライドは高くて「ドル高にものを言わせて何でも買えると思ったら大間違いよっ」っていう高慢女にヨーロッパを見立てているということかもしれないです。監督のハンフリー・・・じゃなくてマンキーヴィッツさんはドイツ映画の字幕翻訳からキャリアを初めてその前はシカゴトリビューンの記者だったという人、当時のハリウッド映画人としてはトップクラスのインテリだったのでこれぐらいのことは決めつけてみました。そんなに的外れじゃないと思うよ。

 彼女に人生変えられても別に恋したってわけじゃない

 巧妙なんだかしりませんがマリアに出会った時のボガード監督さんは「やっと人生の伴侶に恵まれて幸せな新婚さん」状態にあったので、ただ純粋な庇護者として彼女を教育せねばという責任感にとらわれます。だいたい彼女のまわりはやたらと癖者ぞろいの男たちが(ハリウッドに進出したマリアを巡って米国の神経質な成金男と南米石油王のドラ息子という新大陸の男2人がもめたりする)常にうろついているので本当に助言するだけで精いっぱい、おまけにそんな男たち以上に彼女は勝手きままなのでボガード監督さんはひたすら「君はシンデレラを目指してくれ、ちゃんとした王子様を見つけるべきだ」と訴えます。彼女に「君にとってのアメリカンドリームとはこうあるべきだ」と説いているのですが、これは監督にとっちゃ旧弊した階層社会や因習を捨てきれずに方向性を見失っているヨーロッパの再興に助力していることに等しいからなんですね。

 そんでもってもう一人、彼女に恋してるわけでもないのに彼女に憧れて「あんなふうにやってみたい」と妙な行動を起こすのが、オスカー(エドモンド・オブライエン)っていう宣伝マン(社交界の大物に取り入るコーディネーターといえばいいのか?)。この人見た目は汗っかきの太っちょオッサンなのに、中身の方はミーハーで尽すタイプのおばちゃんそのもの。マリアが自分を見出してくれて一応恩義を感じても良さそうな出資者の成金男を振って(でも成金男とは結局セックスもしてない、マドリードから付き合っている遊び相手はハリウッドに呼び寄せたりするくせに)石油王の息子とヨーロッパへ遊びに行っちゃうと、じゃ、アタシも彼女のまねしたいわって、自分も石油王のもとへ転職するんだから・・・

 で、この二人(ボガード監督とオスカー)が交互に彼女の人生を回想していくのが物語の構成になってます。なんだか「カサブランカ」で世界秩序の構築を叫んだヒーローとより文化的なヨーロッパに憧れてる米国ミーハー婦人がお互い「彼女にはとても敵いませんでした」って述懐してるようなものですね。しかしそしたら「マリアの王子様」とはいったいどうやって見つけたらいいのでしょう・・・


 シンデレラの魔法? それとも呪い?

 それでも「君が幸せになる為には本物の王子様を見つけなさい」という教えがマリアにも徐々に効いてきたのか、ヨーロッパの避暑地でイタリアの若き伯爵(ロッサノ・ブラツィ)とついに運命的な出会いをして恋に落ちます。伯爵さまったら20世紀に至ってもまだ騎士道精神全開! っていう勇猛果敢な性格が災いしたのか、先の大戦で負傷して性的不能になっちゃった。だから傷心を埋めてくれる女神のようなマリアを本当に純粋な愛で包んでくれるんですね、だけども不能不能っていう残酷な悲劇・・・終盤の展開を安いメロドラマみたいで変なの、という評も多いんですが、彼女はこうやってゆっくりと没落していくヨーロッパに殉じて去ることを本当は望んでいたのかも、などとシミジミする方が鑑賞の仕方としても楽しいのではないかと思います。

 ・・・しかしボガード監督、「スペイン語でもシンデレラという言葉はあるだろ」「シンデレラってスペイン語でなんて言うんだっけ」・・・やたらシンデレラ連発がちょっとウザいのよ。シンデレラってアメリカ人にとっては正義と一種なの、ひょっとして。