たられば(IF)の女 ⑧ 「稲妻」の高峰秀子他

 

稲妻

稲妻

 

 成瀬巳喜男と女流の脚本家

 松竹のシナリオ研究所に通っていた頃に講師で井出俊郎先生という大御所が居てとても為になる映画産業黄金期の話をいっぱいしてくれたのですが、当時の私らはその手の話に一切興味がなく(-_-;)・・・殆ど皆井出大先生の話をボサーっと聞いているだけでした。その話の中で「ある有名監督が言うには女流の脚本家というのは構成については全くできないので構成については自分がやった」と発言していたとおっしゃっていたもんです。有名監督というのは成瀬巳喜男のことで女流脚本家というのは水上洋子とこの映画や流れる [DVD]でも井出さんとともに脚本を担当した田中澄江のことだと思います。ただその割に映画の展開について等、内実では完全に成瀬主導でいったわけでもないらしいという噺も最近は伝わっていて浮雲 [DVD]でもラストは水上洋子がほぼ決めてしまって成瀬としては凄い不満だったのにも係わらず代表作とされちゃったとかなかなかに複雑です。あとやはり水上洋子にしろ田中澄江にしろかなり作風に個性の違いがあって見比べてみるとどちらがより〇〇だろうか・・・と議論してみるのも面白かろうと思います。ちなみに高峰秀子は「流れる」やこの「稲妻」の出演時の記憶がどちらも殆ど無いというコメントを後に残しておりますが、この辺が田中澄江という作家の個性を見極めるポイントかもね。私たまたま田中澄江の一番最後のエッセイ集を立ち読みしたコトもありますがかなり毒舌な人でした、しかもなんか冷たいリアリスト。

父親が一人一人すべてが違うというきょうだい

 ザビ家の兄弟の先駆けと言えましょう(笑)。ヒロイン清子(高峰秀子)の母おせい(浦辺粂子)はいろいろあって生んだ4人子供の父親が凡て違うということになってしまった女。この時代死別も多いし、失敗して女房子供おいて出て行ってしまう男も多いからこの母親が特に男好きというわけではないのですよ。あくまでも残された子供と生きのびるために再婚を繰り返した生き方をしたむしろ控えめで優しいお母さんなんですね。清子は4人兄弟の末娘ではとバスのガイドをして経済的に自立している。上には兵隊帰りで未だ就職できずニートな兄嘉助(丸山修)と結婚した姉光子(三浦充子)と縫子(村田千枝子)がいる。ザビ家でいえば清子は「ぼうやだからさガルマ」のポジションにあたり嘉助はキシリア+ドズルってカンジ、そして長女の縫子と次女光子・・・この二人の女がとにかく悪い、悪い。光子の方はむしろ可哀想じゃないの?とお感じになるやもしれませんが不幸になった恨みもまたさらに己に向けるという・・・男性をとことん幻滅させるという意味では悪い女だといえますね。成瀬巳喜男映画をガンダムネタで説明してどうするつもりかいっ?・・・というのはさておき、物語は清子に縫子がやり手のパン屋綱吉(小沢栄太郎)との縁談を持ち込んでくるところから始まります。

食卓のない家

 縫子は綱吉と一緒に旅館(まあ要するにラブホ)を経営して自分の旦那はほったらかし、早い話がすでに綱吉とデキている。その上で綱吉と清子を結婚させようとしています。この時代結婚適齢期の女性13人に対して男性1人というほど男性にとって売り手市場の婚活状況だというセリフもあるくらいなので、この綱吉って男はかなり調子こいている。根が賢明だし商売上手なので一見腰低いからつい騙されそうになるけどね。ただ幸か不幸か清子の家の人達って皆それぞれバラバラで優柔不断なんだよ(笑)、兄の嘉助の就職の世話まで綱吉がするって外堀埋めようとすると、縫子の夫(植村謙二郎)が不倫に怒って夫婦喧嘩したあげく、行く処がないので清子の家に居候しだしてそれをおせいが面倒みてあげるとかもうぐっちゃぐちゃ。住宅不足で下宿人も置いてたり、次姉光子の夫が急死して実家に戻ってくるとか忙しないしね。清子は実家のどたばたに疲れ切ったのと何より綱吉、縫子そして光子の間のいざこざに嫌悪感を覚えて実家を飛び出すようになる。

 清子の家で特徴的なのはとにかく食卓が映らないこと。家族団らんのシーンもそれなりにあって、家族で蕎麦食べたりしているのだけど光子の引っ越しに集まって蕎麦を食べる・・・という具合に通常なら当然あるはずのちゃぶ台や箱前の類を意図的に失くしているのさ。食卓が無いという家には家長という存在や「父性」というものが欠如しているという表現なんでしょうね。母親のおせいは子煩悩で世話は一生懸命に焼くのだけど子供の教育には無頓着。そもそも女親が子供を教育しようだなんてのはダメだとされた時代だからしょうがないんだけど。ただそのおかげで成人した子供たちは一体何を規範として世の中渡っていいのか判断でいないし考えたことすらないからひたすら欲望と私怨だけで突っ走るしかないの。で、そういう状態だと結局弱肉強食の理屈だけが説得力を持つようになりますね。

家の中に「父性」はない、家の外に「父権」があるだけ

 おせいは子供たちそれぞれに「お前の父親はこうだった」と語って聞かせるのが精いっぱいだった。清子の父親は正直で誠実だったと清子に必死に説く。清子が仕事によって自立しようするだけなのを見て「お前の父親のようにイイ人も世の中には居るんだ」って。せっかく縁談が来たと思いきやその男が長女の愛人でおまけに未亡人になった次女にまで手を出している状況を目にしても何もできない無力な母親だから、そんな説得されても清子は困るわな。「父性」でも「母性」でもいいんだけど片親だけの家族だと子供に規範を教えるのは中々上手くいかないのかもしれない。「民主主義などという下等なシステム」みたいに発言するギレンにもザビ家のおとっつぁんは「お前はヒトラーのしっぽだな」と嫌味を言うぐらいしかなかったみたいに、おせいは縫子や光子の振る舞いを「父親のDNAのなせるわざ」のコメントだけで娘二人が暴走していくのを止められないのよ。光子は急死した夫に愛人と子供まで居たのを知らされて夫の保険金の一部を請求されたりしたもんだからすっかり心根がグレたのか綱吉の誘惑に乗りお店を出す。再婚なんかよりも金回りの良いパトロンを得てお店を出すような生活の方が楽ちんだからって。縫子に至っちゃもとより甲斐性のない夫よりも金と力が欲しいという欲望むき出しの女だから、美人だけど人畜無害だとタカをくくってた妹の光子に出し抜かれてオトコ取られたと知ってぶちきれる。姉二人の行動の規範は「結局カネ」だけだからさ。ただでさえ父性が欠如した家庭で育ってるから「家というのはキャッシュフローを生む箱」みたいにしか考えられない。女性がその意識で徹底すればより近代的な一夫一婦制の結婚に魅力は感じないようにもなるわさ。明治から戦前までの大都市圏だと中の上の懐具合の男性だったら妾囲っているの当たり前で妾には寡婦も多かったし。縫子に綱吉の仲を問い詰められて思わず「にやっ」と勝ち誇る光子の表情が怖いの・・・だって映画前半では尽くしていた夫に死後裏切られたのが発覚して清子だけじゃなく観客もすっかり光子に同情してたからさあ、その豹変ぶりはなんなのよ・・・もう清子でなくともがっくりくるよ。

「世間知らず」の清子、ある兄妹に出会う。

 実家を飛び出した清子は品の良い未亡人の家に下宿を見つけてホッとする。清子の家にいた下宿人の独身女性は教養がある女で食費を削っても蓄音機で音楽を聴く、なんてことにお金を使う。清子の家族はそんな生活スタイルのどこが楽しいんだってせせら笑うけど清子にしてみると「食費を削っても夢中になれるものがある」人間の方が豊かで文化的な生活を謳歌している気がして思いきって自分も挑戦したのさ。綱吉はそんな清子にがっかりして「縫子さんなんかこっちが頼まなくでも(自分に)きたのに」って愚痴る・・・聞いて呆れるトコだけどね。ただ「昭和の歩くATM」としてしか女たちにちやほやされない綱吉も相当に不幸なオトコかもよ。で、この映画オトコを悪者にしない分、女の冷酷さと非道が目立つんだけどぉ・・女流作家に好き放題書かせるからだよぉ~。(苦笑)田中澄江はこの映画で東京生まれの若者が地方から出てきた中産階級で育った同世代に「驚いて憧れを抱く」様子を巧みに描いている、これだけでも日本の戦前から戦後の風俗の実態がうかがえるね。あと終戦直後の日本って結婚適齢期の女性たちの多くが独身を貫いたという「かつてない異常なディストピア事態」が発生したんだけど、どんな動機で彼女らが結婚から遠ざかっていったのかが「流れる」と合わせて観るとよく解かります。高峰秀子自身が当事者世代の代表として役を演じていたからぶっちゃけ怖くて記憶が消失したのかもしれないよ。

 でも最後の最後、下宿の隣に住むさわやか兄妹(根上淳香川京子)の登場によって清子の周囲がガラッと変わってしまう。兄の周三は妹のつぼみをプロのピアニストに育てる為に働いている男性。清子は兄の庇護のもとつぼみが奏でる可憐なピアノの音に惹かれて二人に出会うって・・・突然乙女チックに話が反転する。まあこの部分が映画の唯一明るい部分といやあ言えますが。そんで実家の母から「縫子と喧嘩した光子が家出してどうしよう」と助けを求めてきて母親を安心させて送っていくという場面になる。「稲妻が鳴れば光子姉さんは帰ってくる、姉さん昔から稲妻を怖がってたから」って。平穏に終息するか波乱になるのかぁ・・・の余韻を持たせて87分と短め。なんか「キミは生き延びることができるか?・・しゅうぅぅ」ってカンジで終わります。しかし光子はどうなったのかな、ザビ家の二番目のきょうだいは一年戦争前に死去してしまったが。

 

 

 

 

BL版 ドキュメント野郎!! ② 「最後の一本」

 

最後の1本 ~ペニス博物館の珍コレクション~ [DVD]

最後の1本 ~ペニス博物館の珍コレクション~ [DVD]

 

 三人の「漢(おとこ)」、一本の「〇〇〇」・・・

 まさに「野郎の、野郎による、野郎のための」ドキュメント。とはいえ一発目に出すのは気が引けて二番手に登場させることにしました。

 なにせDVDのパッケージにもあったみうらじゅん大先生の「コメディ映画であることには間違いない」というコメントと日本版と英語版の予告編のカンジが映像のチョイス以外はほぼ一緒だというのがまたあまりにもこのドキュメンタリー映画を正確に伝えているので泣かせます(笑)、まさに三人のオトコの生き様が激突、なぜにそこまでこだわらなきゃいけないんだろうっ、ていう。

三人の「ココロ熱き男たち」を紹介するぜ!!

 まずアイスランドのフーザ・ヴィ―クという港街に「ペニス博物館」というのを建てた館主のシッギ(シグルズル・ヒャールタルソン)氏ね。このお方中学の校長先生までになられた実直な教師で学究肌の爺さんなのですがある日牛のペニスを観て心惹かれ死んだ哺乳類の男性器をホルマリンで保存した標本を作ることを決意、以来死んだ哺乳類の死体から男性器の標本を作ってコレクションするようになったとさ。博物館はもともとシッギ自身が作ろうとしたわけではなくて、家の中にコレクションが溢れ返っているのに困った奥さんの助言によるものだそうです。シッギの奥さんも夫を怒らせることなく標本を博物館に凡て持っててもらいホットしたそう・・・っていうのがなかなかアイスランド人の優しさっていうかヘンテコリンさなのかもしれません。で、映画の発端はシッギさんの男性器のコレクションは完璧に近いんだけどただひとつ足りない動物がある・・・それは「人間の男性器」だということでペニス寄付の候補者を大募集!・・というところから始まるのでした。

 んで世界に向けて「ペニス募集」を発信したところ地元アイスランドから90歳の元探検家で有名なパゥットル・アラソン氏が名乗りをあげ、そりゃあ良かった博物館としても皆が知っている名士の一物というのは誇りだよ一件落着、となったのですが一人アメリカのカルフォルニアからトム・ミッチェル氏というまたお金持ちビジネスマンも同時に応募してきました。彼はまだ60歳手前というお年頃。ペニス募集に興味を持った御二方はどっちも若いころは絶倫でぶいぶい言わせてたぜっ!という過去の栄光を大事にしたいという(笑)強い願望があるらしくその証として「俺のやつ是非ホルマリンに漬けてよ」ということみたいなの。♡その点アラソン氏は年齢的に圧倒的優位で第一候補、早速ペニスの標本を作る準備だけしましょうかとサイズを図るために「片どり」を開始、確認したところ問題が発覚!・・・成人男子のナニしちゃ短くないか?って(おいおい、でもアラソン爺さん14センチはあるっていってんじゃんか)実はアイスランドは中世の時代から男性器の長さが短いと妻が夫に対して離婚を申し立てをしたぐらい男性のサイズにはこだわるお国柄だったのさっ。(日本サイズよりは大型が基本なの。だからじゃぱんめんずはアイスランドだと時に肩身が狭いこともあるかもねっ)だからシッギだけではなくアラソン氏の身内も含めて「アラソンおじさんの誇りを尊重するために」どうしたらいいのか皆で悩んじゃう、大ピンチ! 俄然巨〇を誇るミッチェル氏に候補の目が出てきたのだった。

三人のうち真っ当なる人物、そうでない人物・・・

 この映画の感想を男性がやるとなぜだか↑のような議論を始めてレビューを進めるのですがアンタも何故そんなことばっかり気になるわけ?と女の私は突っ込み入れたくなります。三人とも真っ当とかそうでないとか超越してるじゃんか。(笑)それより男の誇りにもお国柄がでちゃうもんなのね~というところが味わい深いと思いますけど。シッギは「お葬式にペニスが無いご遺体だと家族が可哀想、提供して欠損した臓器とかだったらまだ良いけど」って悩むのですが、正直「?」な反応になります。(アイスランドは土葬だからかなあ?と超批評で推察してましたけど、すっぽんぽん姿で家族も埋葬したくないだろっ)どう考えても理解できないお悩みとしか。アイスランドの人びとは優しいっていうかどんな偉大な実績を残した人物でも「加齢ともに縮む」現実を皆で哀しみともに受け止めるとか・・・共感力高いのもいいけど限度があるってば、なのね。これを「イイ人達」というのはともかく真っ当とまで言うのは同じ島国マインドの人間の発想だからこそと思うわ。またアラソン氏は老いてますます意気軒昂というか生涯関係した女性に関しての昔話が止まらないというか、普通の女性としたのは3百人程度でセックスワーカー系の女性とは別カウントだよっ、とかやたら自慢デカくなるばかり(笑)おまけに自分のモノを標本にしようとミッチェル氏の野心が暴走し始めてきたのもシッギの悩みの種になります。もうミッチェルさん自分のペニスは要らないからあえて「エルモ」と命名我が息子として社会へと送り出したーいとまで言い出す。つまりね生きているうちにちょん切った自分のペニスの標本を博物館に置いてもらって自分で観に行きたいんだってさっ。そう肥大した自我を持て余しているのが超大国のリッチにとっては(サイズではアラソン氏に4センチ以上差をつけているものの)それは同時に苦しみかもしれないのよぉ、本人はツライかもね、観てる分には爆笑だけど。

ペニスの発音って・・・

 辞書で確認してみたんだけどpe-nis(pi:nis)って発音するって書いてあるんだ。でシッギさんたちもだいたアクセントは最初のpeの方において発音しているみたいなんだけどこれが米国のミッチェル氏の場合なぜだか(pi:nas)って言ってさらに(na)の方に強いアクセントつけているように聞こえるんだよね。ミッチェル氏の生涯の野望は一度でいいから「誰よりも一番早くそれをやり遂げた男」になることだそうでシッギのペニス標本一番手になることに賭けている。シッギは生きているうちに切断した標本は博物館にとってはルール違反になるから要りませんて拒否したもんだからミッチェル激怒するし話がどんどん拗れていくの。焦ったミッチェルは自分のエルモにコスプレした写真を撮ってシッギにアピールしだすし、シッギはアラソンがダメでミッチェルも厭だとすると自分のでやるしかないのか?とかまた悩みだす。ミッチェルの夢はどこまでも膨らんで「エルモ」がまんまコミックのキャラクターになって人類の危機を救ったりするヒーローになるというプランを計画しているんだ。一方シッギはペニスのコレクションは「皆に嫌われているものを救いたいという自分の願いからきているんだ、エコロジストとしての精神からさ」という自説を説きアイスランド原産で今や絶滅の危機に瀕している北極キツネの保護に取り組んでいることも強調するんだよ。そんなこと映画は交互に描くもんだから観ているうちに笑うの通りこして呆れるもんね。

 体調を崩し己が標本になるしかないのかと悩むシッギさんが保護している北極キツネをセンチメンタルなまなざしで見つめるのと、エルモのことを「ぴぃなあぁす」と発音しているミッチェルさんの姿は対照的。シッギさんに至っては「もうこのヒトの頭の中には死後自分自身の標本と北極キツネのとが並べて置いている図がばっちり入っているんだろうな」なんだよね。対してミッチェル氏はもともと自分の一物をエルモって名前にしたのもセサミストリートより早かったし、今度こそエルモのアメコミキャラ化で歴史に名を残す一番になりたいって力説する。話聞いているうちに「いやあ、それだったらチャールズ・シュルツチャーリー・ブラウンで真っ先に実践したアイデアではないのかしらん」と思ってしまった。私昔っから何故SNOOPYの漫画が「PEANUTS」というタイトルなのか長年疑問だったのですがやっといろんなコトが腑に落ちるようになりました、そういう意味じゃいろいろ勉強になった映画だったよ。

標本の行方は・・・

 それは鑑賞して確認してね。ラストに博物館にあるモニュメントも紹介されるのですが日本の神社などに祭られている「ご神体」と比較していても楽しいよ。♡

 

BL版 ドキュメント野郎!! ① 「アクト・オブ・キリング」

 

 今やドキュメントは娯楽映画ジャンルとしてもメジャー

 ・・・ですよね。世界的な傾向だけど特に日本の映画市場でみた場合ミニシアター復活の起爆剤になっているカンジ。そんで今時の映画ファンがどうやらドキュメント映画に求めているのは、「漢、男、お・と・こ」の生き様見届けたい!!という衝動のようです。「オンナの現実(リアル)」を見届けたい需要も多少細々はあるようですがそっちの方面は低調。日本のドキュメント映画は1960~70年代にかけてはむしろ圧倒的に女性の役割が大きかったのですが随分と様変わりしました。それはそれで日本社会の構造変化ということで、なんか凄いデカいことのような気もしますが具体的にはよく解かりません。なにせ私自身そんなにドキュメントもの詳しくない(-_-;)・・・なんで地道に「野郎の背中」を追い続けたいと思います。

 

 

これ観に行った時「混んでたのぉ」通路に座布団しいていた観客も

 イメージフォーラムの興行はゴールデンウィークが最後、だったと思います。3日にちょうど時間ができたので一人で観に行ったのですが整理券渡された。最初観ようとした一回目には人数一杯で入れなかったもん。どうしてここまで盛り上がったのかイマイチ不思議でした。お前も観に行ったじゃん、と言われましょうが受けるドキュメントの「ツボ」があんまりピンとこないものですから。口コミで・・・というなら確かに映画の内容的にいっても納得はできるのですが、そうするとここまでの「伝播力」は一体どこから来るのかということですね。衝撃的だったり扇情的な題材や「仕掛け方」のドキュメントならそれ以前にもあったし、この「アクト・オブ・キリング」のヒット以降さらに増えたんですが、じわじわ・・じゃなくて電光石火のように観に行くヒトが増えたという印象でしたわ。

 

ACT(虐殺行為をしたご当人)による再現ACT(演技)、その暴走っぷり

 最初にジャカルタに住む「若い頃悪してた」という割には実直そうな爺さん(アンワル・シンク)とやたら明るいけど胡散臭い中年のおっさん(ヘルマン・コト)が登場し、アンワル爺さんが1965年から行った「9月30日の大量虐殺」について屈託なく語るところから始まります。アンワル爺さんのやったことは地元では一種の英雄行為とされていて住民を片っ端から捕まえ、「共産党員」にされた人々を次々処刑していったのにも罪の意識は全くない様子。どんな風にやったんですか?と聞かれ当時殺害現場だったある建物の屋上で「こんなカンジでクビを切ったかなあ・・」とやって見せようとするのですがなんか要領を得ない。どうだったけなあ・・・とアンワル爺さん遠い目をし始めるんで、住民の尋問とか何から始めから再現しませんかお芝居でってハナシになってしまうのですね。確かに監督自身の提案だったとは思いますが、アンワルの傍にくっついているヘルマンはアマチュア劇団もやってたギャング(笑)なので、張り切っちゃっていろいろ用意してどんどん大がかりになっていくのでした。監督が取材当事者にやらせてみる、ドキュメンタリーなのに「やらせ」だということでGOOGLE検索でそれが特別にピックアップされているという(笑)私なんか「え、あのドキュメンタリーにまだ知らないことあったっけ?」と一瞬不安になり、検索に乗ってみたら通常の紹介でそれに驚きました。確かにやらせドキュメンタリーって聞くだけでインドネシア現代史に対する興味なんか吹っ飛んでしまった上で、喰いついちゃうよね。

キャラ「立って」ます皆さん・・・笑っちゃうし、「茫然」

 ヘルマンのおっさんが仕切るもんだから住民まで巻き込んで60年代当時の共産党員が自分の家から連れ出される件を近所の人達が協力してお芝居始めちゃうとか、自分の継父を殺された遺族のおっさんまで出演、そして尋問されるシーンに出演って・・・一体何考えてんのさってカンジです。いやああの頃は物騒だからいろいろあっても仕方ないよね~みたいな雰囲気です。パチチェラというインドネシアのギャング団が地域に根を張って仕切っているので、あんまり皆怒らない。ついでに言うと1965年にスハルト体制が崩壊したのはスハルト社会主義寄りの政治に走って経済が沈滞化し、インドネシア経済で力を持っていた華人住民には風当りが強かったのですが、クーデター後共産党員として粛清されたのは主に小さい商売をしていた華人という滅茶苦茶ぶり。この辺がまるで昔の「喜劇駅前」シリーズみたいなノリでドタバタちっくに展開されるので唖然としてしまい、そのうち一つの村がそのまま無くなるほどの虐殺シーンが例のパチチェラ青年団まで動員されて再現されるやさすがに気分が悪くなってきます。「俺が当時虐殺に加わってたら絶対村の処女とヤる」等のセリフには心底ムカつく。お前らどこまで過去を肯定する気だよ! でもそんな呑気に過去を振り返ることができるのは決して当事者ではないからなのにね。それはアンワルとともに尋問、虐殺を行ったアディ・ズルカドリやアンワルたちに指示してその手柄で出世したイブラヒム・シンクが登場するとだんだん観客にも伝わってくるのですが。

記憶を抹消させた元は気のいいアンちゃんと時間をかけて自己合理化したオッサン

 アンワル爺さんは昔の仲間だったズルカドリに協力を頼み再現しようとするのですがどうやって尋問したのか分からなくなって混乱するアンワルに「あの頃は事情はこうだったじゃないかと考えてみろ」とアドバイスします。アンワルは最初は自分の過去に虐殺した人間は罪ある共産党員と言い張っていたんですが、実際尋問の芝居が始まるとなんか俺酷いことしてないか今?と気が付きだす。そりゃアメリカ映画に憧れてギャングのスーツを着て街を闊歩していた若い頃と比べて今は二人の孫を猫かわいがりする爺さんだもの。そこでようやく自分がやったコトの意味を正確に理解したんだね。ズルカドリは尋問シーンの撮影でも終始冷静に的確にアドバイスするのがホント凄い。罪の意識の有無は超越した所でアンワルが強いショックに見舞われないように必死に撮影チームをコントロールしようとするの。政情が不安だったり皆まだまだ貧しい途上国での「賢明な市民の理性」ってそんな具合に発揮されるのかもしれない。ズルカドリは当時から自分のやっていたコトをあまりにも正確に理解していたから虐殺事件後は故郷からも離れた。そして家族と一緒にショッピングモールで買い物しながら、こんな豊かさを享受する前段階にはああいう事件が必要だったんだと相対化しているんだね。だからズルカドリは今現在だけを目にしながら過去の虐殺のコトばっかり考え続ける人生になった。ずっとそのことだけを考えていた彼の言葉はアンワルには重くて、ようやく尋問シーンを完成させる。捕まえた一般市民を尋問して処刑を決めたシンクの役をアンワルが演じる時の時の表情もまた凄いもんだったわ、劇的なんて軽く言えないくらいよ。

とにかく一番怖いのはえずいている爺さんの背中ぁ、に、呻き声ぇ・・・

尋問シーンを撮り終えたアンワル爺さんは再び自分が市民たちを処刑した例の屋上に再び出かかてもう一度、殺した仔細をはっきり思い出し再現します。監督が指示した以上にアンワル爺さん自身が振り返って確かめたい衝動につかれているのがはっきりわかるのさ。傍から見ると最初と最後の爺さんの振る舞いに物凄い差があるわけじゃないけど虚空を見つめて過去の記憶がよみがえる爺さんの背中に、どっ・・どうするんだよ爺さんて緊張が走りますが、案の定というか身をかがめて爺さんはえずきだす。思わず「ごく普通だっ」て思ったのですが、とにかく爺さんえずいてもなんにも出てきやしない。ただカラカラの呻き声が響くだけ、それがひたすら不気味。そして映画が終わり・・ああ、やっと終わったって観客の私らもどっと疲れたよ。どうするんだろう?と観終わって悩んじゃうしね~一部の報道にあるように虐殺された遺族や外国の人権団体では事件を掘り起こして罪を問えという声もあるみたいですが。一体何をどうすればインドネシアのあの人達皆が納得する算段になるのか見当もつかないぜ。この映画の後、同じ監督で続編も製作されたようなのですがまだ観ていません。多少とも建設的な「過去の収め方」ってあり得るんですかねぇ、この虐殺の場合。

 

 

IF(たられば)の女 ⑦ 「遊星よりの物体X」のマーガレット・シェルダン

 

 

遊星よりの物体X-デジタルリマスター版- [DVD]

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 THE THING FROM ANOTHER WORLD・・・とにかく名作

 興味深い(interesting)けど面白いか(fun)どうかは保証しかねるかもしれないね、二十一世紀の現代からしたら。リメイクのジョー・カーペンターズ版でさえもはやSF映画としてはクラシックの粋だし。OPのクレジット観ると「ハワード・ホークスプロ」の製作で名匠ホークスは監督を自分の弟子に託してプロデューサーにまわっている。(でもかなりの部分自分で監督したらしいけど)ホークスは1938年発表の短編を30年代中には映画化権獲得して1951年になってようやく公開にこぎつけたのだっ。でもそんだけ力いれていたこの作品を現代の理科好き小学生が観たらおそらく「えーっ!動物の血なんか養分にしなくても植物は呼吸をするものだよー」とか「なんだかキャプテン(大尉)と博士の秘書役のお姐さんがいちゃいちゃしてる婚活映画じゃんかあ」・・・などと鋭い突っ込みをすること必至でしょう。(笑)当時やっと脚光浴び始めたばかりの「SFジャンル映画」を成功させるために、低予算で済む新人でキャストを固め、RKOニューフェイスのマーガレット・シェリダンを売り出すための映画にしているからなんであります。だからキャストでも一番最初にクレジットされるのはヒロインのシェルダンだし、最終的にXをやっつける大まかな方針を決定するのも彼女なのだよ。

11月のアンカレッジにしちゃ、皆さん薄着のような・・・

 冒頭ではそんな感じがしたのですが(室内シーンだしね、パッと見暖炉だけで暖房しているようにしか思えない(笑)実際北極が舞台になっているのでアンカレッジの平均マイナス30度に近い他の州(ギリギリ北極の環境に近い所でロケしようと冬場マイナス20度になる)地域で組んだそうです。マイナス30度を下回ると当時のフィルムはバリバリになっちゃうんだとか。ある日アンカレッジ基地に極地で研究しているキャリントン博士(ロバート・マーンスウェイト)から巨大な隕石が近くに落ちたと連絡が入ります。ヘンドリー大尉(ケネス・トビー)のチームが日頃から博士と懇意なので研究所に向かうと氷の下に巨大な物体を発見。周囲の磁力計は物体のおかげで狂ってしまって物体から磁力が出ているのは明らか。爆弾を使って氷から掘り起こそうとしたのですが物体の大半は爆発によって破壊され残ったのは凍った人体らしきもの一体だけ。それを研究所に運んだところ温まったらしく動き出したの、犬ぞりのイヌがいきなり襲われたみたい。姿も音も立てない怪物なんだけど凍った状態の時から放射能を発してたので、ガイガーカウンターで怪物の襲撃を感知して奴の襲撃に備えましょう・・・とハナシはあっという間に怪物退治の展開になります。でもヘンドリー大尉は研究所の報告を受けた時から博士に逢いに来たかったんじゃなくてお目当ては博士の秘書のニッキ(マーガレット・シェリダン)だったから新発見の物体を運んできてもそっちのけで彼女の所へ入りびたりなんだけどね。ニッキはそこらへんのオトコよりよぽど酒に強くて酒につぶれたヘンドリーを置いて帰っちゃったとかひたすら男女のいちゃいちゃが続きます。でもそんな二人がいいカンジになりかけた途端に怪物の襲撃が本格的になるのだっ。

少ない味方で襲撃を迎え撃つ「必殺勝利の装置」

 装置というのはかの蓮實重彦センセの命名で特別に「ホークス装置」とまで呼んでおります。なんか活劇映画の際に必ず必要な美術・小道具・システムというか・・・まあいまどきのTDLUSJにあるアトラクションの概念(アイデア)の原型を観ることができるっていうと誰かに怒られるかもしれないけど。(でもそれが説明としちゃ一番解かり安いかとも(てきとー過ぎるけど笑)・・なんだかそんなもん。ホークス装置として有名なのはピラミッド [DVD]の砂がいっぱい入ってくるのとか赤い河 [Blu-ray]に登場する牛の大群とかなんでしょうが、「遊星より・・・」の場合は研究所の食堂とか電熱装置のある地下室という「密室」になります。そこへ怪物を追いこんで皆でやっつけるってこと。やっつけるのは良いのですが怪物は結構長身で怪力で不死身(犬に腕を食いちぎられてもまた生えてくるのさ、植物生まれだからねぇ♡)なものですからどうしようということになってヒロインのニッキがアイデアを出す「火よっ!」って。そんで食堂に研究所の皆で立てこもって怪物がやってくるのを待つの、ガイガーカウンターが反応するの、ドア開けて怪物が入ってくる!、そしたら皆で怪物に火をつけちゃおう!食堂のクッションも燃えるし危ないから消火も忘れずにね~(笑)実に効果的で簡潔な解決策。でも怪物は完全には燃えてなくなってはくれなかった。(だいたいそんなことしたら建物も燃えちまうし)それに一杯あったはずの灯油が無くなって火責めは無理だね。そうだ電気を通すのはどお?って話にいなったんだけど、そしたら電気まで止まりやんの。キャリントン博士だけは怪物の発見が惜しいから死なせたくないんだよ。そこはまるでエイリアン ブルーレイコレクション(5枚組) [Blu-ray]みたい・・・ホークスの死後続々と登場するSF特撮映画の設定が全部揃っておりますね。

原作者のジョン・W・キャンベルというお方

 原作は「影が行く」という短編で怪物の正体もホークス版の「植物の妖怪」みたいな単純なものではないようです。そこらへんはジョー・カーペンターズの「遊星からの物体X」の方が原作の雰囲気に近いのだとか。アマゾンレビューでホークス版が好きじゃないヒトの感想に「映画自体が人種差別そのものを描いていて厭、ハワード・ホークスって人種差別主義者なの?」という内容がいくつかありましたが、原作者ジョン・W・キャンベルがバリバリの白人至上主義者だったそうで、そのテイストに関しては素直に出ているのかもしれません。ハワード・ホークスの映画はいつでも簡潔、合理的がモットーでそこにユーモアを加えることによりヒーローと互角に渡り合うヒロインが活躍したり、移民社会アメリカの雑多な人々の描写にほっこりできる・・というのがパターンになっております。「遊星よりの・・・」でも研究所の職員、軍人、ジャーナリストといった人々が危機に対して一致団結するという展開にはなってますよ。ホークスの映画だと同様にSFっぽいのはコメディだけどモンキー・ビジネス [DVD]もありますけど尖がっている分どこか奇怪な印象を観た後受けるヒトが多いのでしょうか。ウィキペディアハワード・ホークスについて読んでみたのですが、映画作家として圧倒的に評価されているフランス等のヨーロッパ諸国ほど米国では(特に一部のうるさ型の観客、評論家サイドには)人気無いみたい。ノーベル文学賞もらったウィリアム・フォークナーがブレーンだったとか聞くとホークスの周りはインテリ集団のサロンか何かかよっ・・・て昔からイメージしていたんですけどウィキでの執筆者達の態度は割と冷淡なカンジだったのが意外でした。

 ちなみにキャンベルというSF作家&編集者は映画監督ホークスと同様二十世紀に起こった新しい文化のジャンル黎明期において活躍し、後進の人々に讃えられるタイプのお方なんですが晩年は「デューン」シリーズのハバートさんが作ったサイエントロジーにはまり込み自分が育てたハインラインアシモフ等の錚々たるSF作家たちに疎まれてしまったのだそうです。しかしサイエントロジーっていつ頃からあれほど盛り上がったのか?日本の私メにはいきさつさっぱり解からんのですが。

IF(たられば)の女 ⑥ 「ブレードランナー」のショーン・ヤングとダリル・ハンナ

 

 今観てもカッコいい・・・今はこういう贅沢なSF映画観られないしぃ

 ホントだよ、だって今じゃ全部CGでやっちゃうから。作り込んだミニチュアセットを作って撮って、なんて面倒なことはしないもんね。今観てもCG画面と比べて圧倒的な奥行きと暗闇からキラキラ光る照明が立体的に「幻視の未来世界」てのを演出するのさ。つい最近「オデッセイ」なんて映画もあったけどリドリー・スコットSF映画はCGじゃない画面がメインの「自分の〇ん〇肥料にしてジャガイモ栽培」するシーンとか方がよりセンス・オブ・ワンダーしていてわくわくするのですが、ブレード・ランナーではそれしか無いので観るヒトによっては超モダンなSFだし、ヒトによってはクラシックなフィルムノワールやら「メトロポリス」のような無声映画時代のSFやらを思い起こさせるのですよ。その代わりストーリーは何が何だかさっぱりわからず(笑)、主演のハリソン・フォードブレード・ランナーでのデッカード刑事役が嫌いだという噺も聞いたことがあります。まあこの前久しぶりにTVで冒頭のシーンを観たらフォードのその気持ち解かる気がしなくもない。現代目線だとほとんどソーシャル・ネットワーク [SPE BEST] [Blu-ray]の冒頭で有名な自閉症スペクトラム傾向の主人公ザッカ―バーグとガールフレンドのやりとりを彷彿とさせるもんね。ついでに言うと人間のフリしているレプリカントを見抜く能力が抜群だとして登場するデッカードって実は・・・ていうオチが(示唆している程度だそうですが)ディレクターカット版ではあるので余計にハリソン・フォードには気分良くなかったかも。

80年代の華、ショーン・ヤングダリル・ハンナ

 ということは90年代に入ると失速したってことだけどね・・・80年代ってもうメリル・ストリープを中心に大人の自立した女性の全盛期(脱ぎっぷりが良いのも含めて)で若い娘はあんまり出番が無かった。ショーン・ヤングダリル・ハンナはスタイルも良くて顔立ちも正統派の美人でこの映画で注目されたそうですがブレードランナー」は日本公開時にはまったく当たらず彼女たちを後に出演した映画で「そうかブレードランナー」にも出てたのね(笑)・・・ということで認知されたようです。ショーン・ヤングはその後恋愛トラブル等で徐々に「変わった女」扱いされてしまってるのと、ダリル・ハンナは故ケネディJrと交際破局した後なんとなく失速したカンジがするのが気の毒ですがこの映画での彼女たちは存在はどっか陳腐なんだけどそこが「世界観を体現」しているのでありました。クラシックとも80年代ちっくともいえる肩パッドスーツ&アップの髪型から後半ガラッとイメージを変えるショーン・ヤングレプリカントのプリス嬢を演じるダリル・ハンナは今観ても眼福ですよぉ。デッカード待ち伏せするときのダリル・ハンナなんてまるで機械仕掛けのコッペリア(バレエで有名なやつね)かしらんと思っちゃった。結局撃たれて断末魔になるシーン・・・足をバタバタさせて息絶えるのだけど怖いけど美しい。ロイ・バッティ(ルドガー・バウアー)がプリスが死んでものすごく悲しむのが解るぅぅ・・・アタシも哀しいぃぃ・・・ていつも観る度に思います。

原作者フィリップ・K・ディックは死後ブームが到来

 80年代中頃には今は亡きサンリオSF文庫を支えたと言っても良いくらいに日本で次々と翻訳され今現在でも早川とか創元でも読めるディックではありますが、私がブレードランナーの原作アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))をなんとか読み切った頃までは二、三冊あるかないかだったと思います。映画の影響?それとも?というくらいいっぺんに来たドデカいブームだったので、私も原作を読んで二年くらいたって初めてTVで映画観たくらい。それも当時のゴールデンタイム(淀川センセイの日曜洋画劇場とかTBSの萩センセイの月曜日の番組とか)の映画としては「暗い映画ですけど今時の若者にはウケてるらしいから」でこわごわ放送されていた印象がありましたっけ。で、そんな時だったんです、深夜の映画を録画したらまだ駆け出しのハリソン・フォードがチョイ役で出演していて、もう泣きそうになるくらい不条理に怖かったのさハリソン・フォードぉ。

 その映画が例のカンバセーション・・・盗聴・・・ コレクターズ・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]てやつね。コレ観て衝撃的だったのは「知らなかったCA(カルフォルニア)て恐ろしい街だったのねぇぇぇ」で思わずブルっちゃったことでした。それまではCA=「思い切りアメリカン~♪、きてきてきてサンタモニカ~♪」というひたすら明るいイメージしかなかったものですから一見カルフォルニアに居るフツ―のビジネスマン然としたハリソン・フォードがとにかく焦っているジーン・ハックマンに対して頑なに拒絶する演技が超おっかないの・・・まるでディックの小説に登場するヒトっていうのか、レプリカントみたいっていうか。

ブレードランナー続編決定だぞ!!

 んでわりと最近「盗聴」観直したところ、この映画のハリソン・フォードは社長秘書のフリをしてるけどむしろゴットファ―ザーみたいなマフィア的な結束力をも持つ組織にいる血気盛んな兄ちゃん・・・てな役だったので「不条理極まりない」印象は最後にははっきり崩れておりました。だからもしも「盗聴の時の君をみてデッカード役にふさわしいと思った」などと持ち上げられたら、ご当人却って納得いかないことでしょう。あとブレードランナーの続編が今夏(2016年)から製作がスタートして2018年に公開するのが決まったらしいです。P・K・ディックはブレードランナーの映画完成を待たずに死んじゃったので当然ハナシやキャラクター完全オリジナル。ハリウッド映画の中にはアメリ国立図書館に永久保存されるフィルムが厳選されているのですがその中でハリソン・フォードが出演したのは「ブレードランナー」「盗聴」とスターウォーズのエピソード5「帝国の逆襲」なんてのがあります。(どうもこの三作品だけみたい)・・このラインナップなのかあ、とハリソン・フォードの存在についてもいろんなコト考えてしまいますね。続編が製作されるのにかなり時間がかかったということは「ハリソン・フォードブレードランナーが好きじゃなかった」という噂はどうも本当らしいという気がしています。

IF(たられば)の女 ⑤ 「her/世界でひとつの彼女」のスカーレット・ヨハンソン

 

「声」の演技だけで最優秀女優賞だって

 映画公開時の評価が高くスカーレット・ヨハンソンひょっとしたらオスカー候補になるやも、と一時話題になりましたが結局なりませんでした。なにせオスカー前哨戦と云われるゴールデングローブ賞などは役者本人が画面に現れるのが条件とされてたりするのでどうも「声優」は演技賞にならないということがはっきりしたみたいですね。(米国では劇場公開する外国語映画もすべて吹き替えを使ったりするそうなので、その感覚で言ったらフェアな印象が無いのかも)でも何故かヨハンソン、ローマ映画祭では女優賞を取ったそうなあ。(よく解からん)まあヨハンソンの役柄というのが人口知能という姿形がそもそも無いものなんで純粋に声優の仕事ってことじゃないしぃ、などいろいろ事情がややこしいんですけどね。ちなみにこの映画人口知能/S・ヨハンソン以外の女性のキャラクター達、主人公の友人役のエイミー・アダムスから元妻役のルーニー・マーラー、デート相手のオリヴィア・ワイルド他の演技が皆素晴らしい。オリヴィア・ワイルドに関しては名前と話題だけはよく知っていたけどあれほど説得力のある演技をするとは予想だにしていなかったので強烈な印象を残しました。映画の設定が近未来のLAっていうんだけどぱっと見あんまり未来っぽくはない・・・ところから始まりますが設定も登場する未来的な小道具も練り上げられミニマムな都市の外観やインテリアにじんわりと未来っぽさが漂い繰り広げられるストーリーが突飛に感じられないのが本当に凄いですわ。

ルーニー・マーラーが「そっくりさん」

 近未来の設定ではありますが主人公セオドア(ホアキン・フェニックス)の仕事は手紙の代筆屋のいうかなりローテクな職業であります。しかも会社としてかなり儲かっており、セオドア自身も中核のやり手代筆ライターという設定・・・カスミ食って生きていんのかあ?て気もしましたが、とにかく妙ちきりんな設定のロマンチックコメディー映画であると考えると妥当な職業かもしれません。ちょっと前にあった(500)日のサマー [Blu-ray]の主人公だってそういえばメッセージカードのコピーライターなんつー「楽そうだな、アタイにその仕事分けてくんないか(笑)」と思わず言いたくなったくらいだったので、ちょっと浮世離れというか概念とか論理(ロジック)を積み重ねて進む余裕がないと特に昨今では恋愛映画が成立しないのかもね。で、しょっぱなからどんよりして登場するセオドアは当然のごとく離婚調停が長引いている最中、いっそのことと思ったのか話題の新製品である人口知能型OSサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)を購入し会話を楽しむようになる。そんなことしてると友人のエイミー(エイミー・アダムス)夫婦には注意されるけど。でも会話だけだと寂しいのでテレホンセックスしたり、ブラインドデートで女の子(オリヴィア・ワイルド)に出会ったりするけど、何故かやたらと神経質でメンヘラチックな娘たちに当たって、うんざりするだけ。何よりOSのサマンサが凹んでしまうのさ・・・やっぱりお互い「会話」だけじゃ物足りなくなるのかな?というわけでセオドアとサマンサはヴァーチャルセックスにふけるようになるのであった・・・もうこのくだりで「アホくさ~」になる方は最初っから映画観ない方が良いですね。セックスに関する「センス・オブ・ワンダー」がスパイク・ジョーンズ監督氏とは全く合致しないということなのでぇ。ただ私がこの映画劇場で観た時はなんか皆さん息を詰めるように鑑賞していたのがすごかったです。だいたい怖いもの見たさだったり、思い詰めたようなヒトがたくさんいらっしゃってて。平日の初回でしたが私のすぐ前に並んでいた30代くらいの男性は結婚指輪して一人で観に来ていたのに「こ、これはただ事じゃないのかぁ」と急に緊張感が走ったものさ。

 そんな時にセオドアの元妻との離婚についての話し合いのエピソードが割り込みしてくるのがまた強烈に「頭グラグラしてくる」というか、知っているヒトには「ヤバいわルーニー・マーラー映画撮ってる監督の元の嫁さんにそっくり作り込みしてる~」とつい個人的にザワザワしてしまうのでした。(笑)エイミーも交えて元妻のお父さんに厳しく育てられ過ぎたとか思いっきり言っちゃってるしぃ。・・・まあコッポラ家のことですから入り婿になるのは大変だったろうとは容易に推察しますがぁ。

スカーレットだけはいきいきと「電脳空間」を飛び跳ねてて、魅力的♡

 OSのサマンサは起動した最初からアクティブでフレッシュ。セオドアの語ることにもいちいち驚いて感激してくれる、スカーレット声は基本ハスキーなんですが、顔が見えている時よりもフレンドリー(なのはある意味当然といえますが)でより純粋(ピュア)で危うい魅力があるのね。知能の高い生まれたての赤ちゃんみたいな所に惹かれてしまう人間の心理ってあるかもって、サマンサとのやり取りを観ていると思えてきてしまう。実際サマンサはセオドアとのヴァーチャルセックスには飽き足らなくなって、若い娘(ポーシャ・ダブルデイ)を連れてきて実質3Pまでしようとまでするし。びっくりしたセオドアはだんだんサマンサとの関係をセックス中心からお互いのコミュニケーションのあり方を世に問いたいということで本の執筆を始めるのさ。まあ・・・そうやってサマンサとの関係を熱愛恋人同士から落ち着いた互いの伴侶へと至るプロセスを踏もうということでセオドアがすっかりそれに安住すると、サマンサ今度は同時に641人とおつきあいを始めたり、当代№1の哲学者からの知的刺激を受けたりしたもんで、セオドア貴男とは別れるわ私を探さないでぇ・・・ときたよ、それであっけなくジ・エンドさ。もう3P以後のめまぐるしいお話とロジックの展開はまさにガチのSF、センス・オブ・ワンダーランドォォォーだったわ。そういや主人公の名前どっかで聞いたことあると思ったけどセオドア・スタージョンってSF作家から取ったかもね。(私昔短編小説でいくつか読んだ記憶があるっきりだけど)あまりにも本格SF過ぎて当時(2014年)話題になったどっかの理科系研究雑誌表紙がオンナの子型家事ロボットのイラストで女性蔑視って非難集中したこともあり、発想の貧しい日本の技術者連中はこの映画観て皆凹んじまえ、バーカ、バーカ、バーカ!!と一人で盛り上がったのでした。

 もっともサマンサが「アタシこんなにも自由なれたの♡これからもっと大きな存在になれるわ嬉しいワクワク・・・じゃあバイバイ」とひたすらあっけらかんと別れを徹底的(とにかく容赦なくはっきり(笑)に告げる際には劇場のお客さんかなりのヒトはげんなり、もう辛いわ勘弁・・・て感じで席を後にするお婆さんとかいた。なんか重かったよ空気がぁ。私の後ろの席に座っていた団塊っぽい世代の夫婦がなんかウルサクて旦那さんが「俺やっぱりこういうの駄目だー」とか言ってた・・・だったらお互い一緒に来なくてもいいのに(笑)なんだか気になるんだけど既婚男性一人で観る勇気なかったのかなあ・・・じゃ、じゃあチケット買う時に私の前に並んでいた30代既婚男性はっ(-_-;)

 

  私にとっちゃパパコッポラはゴッドファーザー コッポラ・リストレーション DVD BOXじゃなくて↑の映画を撮ったヒトだったのずっとね。だから娘コッポラの映画に「盗聴撮った時のコッポラ」の面影を探しながら観ていたりしたのさ。まだ全部観ていないんだけど「ヴァージン・スーサイス」なんてのもスッカスカの空間に「盗聴」観て本気怖かった時のことを一瞬思い出・・・そうとしたんだけど、むしろ元娘婿の映画の方がずっと似ている(どうしてなの)危険だわぁ。・・・やっぱハリウッド大物映画人同士の離婚は多少は「映画史の必然」になっちゃうのかいな。改めて振り返る「her」でのルーニー・マーラーの台詞にあった「貴男は私のことをただの陽気なカルフォルニアガールだと思っているんでしょ(怒)」の言葉とお芝居が怖かったよう。

 

 

 

 

IF(たられば)の女 ④ 「ゴジラ×メカゴジラ」の釈由美子

 

日本映画なんて「つまらない」で当たり前さあぁ・・・♪ 

 だって予算が無いんだもん、脚本がバカなんだもん、スポンサー等が煩いんだもん、何より「お客」がバカばっかりだからさあ・・・理由をつければ際限なく日々つまらないメイドインJAPANが量産されている気がしてきます。その割には未だ数が多いよね(笑)、もうすでに過去の名作だけで皆充分コンテンツでお腹いっぱいになれそうなのにぃ、そうならない。まあ新作作り続けないと過去の映画や名作小説等もそのまま引き継がれないでしょうから量産の結果大半がスカだとしても鑑賞は続けなければならないのよ、とババアになりかけの私なんかは思います。この極地にまでたどり着けば多少は年とっても楽しくヲタクLIFEが満喫できるかしらん、楽しみ。♡

 そんでもって今回はミレニアムゴジラシリーズを代表する映画にしたよ。

ゴジラ映画はタイトですっきり、解かりやすく。ゴジラ好きの監督が満を持して登板。

 手塚昌明監督は昔から熱烈なゴジラ映画ファンだったそうです。でも助監督としてついたのは西河克己とか市川昆とか本格的派の巨匠な分、ヤングな映画青年には忍耐を強いられそうな環境で修行なさったご様子。ゴジラ映画でも助監督経てゴジラ×メガギラス G消滅作戦 【60周年記念版】 [Blu-ray]で初めて手掛けたのは良いのですが、プロット的には「・・×メカゴジラ」と殆ど一緒、主人公が自衛隊出身の女性で映画冒頭にゴジラの襲撃に遭い仲間の隊員を失い自責の念に駆られて、男たちを後目になんかやたらと頑張るっていう・・・何でも「オンナ主人公」でないとゴジラ映画を監督しないとまで言ったとかって話も。しかも二作品とも映画観る限りは「どうしても主人公が女性である必要もないんじゃあ?」という感じだもんね。そんでヒロインが田中美里より釈由美子のヤツがより有名になっちゃったのもまずは製作サイドが前作の反省を生かしたからなんでしょうけど、それ以上に釈由美子の個性のおかげでしょう。っ個性っつうか釈由美子自身が持つ危険(ヤバさ)がゴジラ映画にドンぴしゃだったてことかも。今時年頃の若い女性が使命感に駆られてストイックにブレずに物事遂行しつつ子供に優しいって・・・そんなお子様向けの特撮ヒーローが女性にひっくり返ったようなのやり通す度胸は無いんですね普通の女は、でも釈さんならできちゃうのだ。「妖精が見える」というのも彼女の場合ネタというより「こういう現象が起きているのを私の中では妖精が現れると言っているんです・・・」と長々説明する姿が皆怖いから関わりたくない、そんな釈由美子なら館山の海に沈んだ初代ゴジラの骨格から作られた「何だか危なっかしい機龍」を任せても大丈夫・・・とにかく相性は良さそう。(笑)

ゴジラの襲撃は「現場で起きている」のか「会議室で起きているのか」

 映画冒頭館山沖に台風と一緒に上陸してきたゴジラ。家城茜(釈由美子)所属する特自のメーサー殺獣光線車隊はゴジラに応戦しようとするも、いきなり光線車体を踏みつぶされるという事態になり、隊長死んじゃって茜だけ助かってしまいます。そん時、日本の内閣首相柘植(水野久美)はゴジラ対策として科学技術庁長官の五十嵐(中尾彬)に機龍の計画を一任。4年後総理大臣になった五十嵐は自ら指揮して秘密裏に(かつてオキシジェンデストロイヤーで倒した)ゴジラの遺体を手に入れ機龍のシステムを完成させようと湯原(宅麻伸)をはじめいろんなとっから学者を集めるのでした。もうこの辺の展開は「昭和のウルトラマンかよ」言いたくなるほどひたすらにベタ。館山沖の時の失敗から左遷されていた茜が機龍のオペレーターへ引っ張られてくるっつうのもそうだし、昔の「小学○年生」とか「TVマガジン」で特集されるようなお子様特撮映画っぽいのであります。ただ湯原の一人娘沙羅(小野寺華那)の存在が重いというか、「ゴジラだって生き物で大切な命」でしょうという主張が映画を一本調子にはさせないかも、でもこれだって昔のウルトラマンをはじめとする円谷怪獣モノのド定番なパターンを彷彿とさせはしますが。柘植首相役の水野久美サマが意外なほど「首相っぽく」、そういや小泉政権が発足したばかりでかの田中真紀子氏全盛の頃だったのを思い出してしまいました。水野サマの芝居で何となく「まあぁぁ・・・いいかぁ」という気になり、いきなり中尾彬なんかに好きにさせていいのかよぉ~と心配にはなったんですが、こうゆうことくらいトップダウンで事を進めても良い案件ではないかと(笑)。相手はゴジラなんで専守防衛にしか法律的にはなりようないし。「そんなことして開発した機龍とやらが暴走したらどうするのですか!」なんつー反対意見が飛び出すようなエピソードなんかもはや退屈だし観たくないしね、だいたい。なんかこう、一種のコミュニケーションの欠落?・・・が映画のテンポを冗漫にしないで効果を上げているような気がしてならないのですがね、気のせいかな。でも同様のことを茜のエピソードを観ていてもかんじるのですよ~。

本気のヒロインはパーフェクトなまでに「中性的な魅力」で通す

 茜が特自の機龍チームに引っ張られ配属されると4年前のゴジラ襲撃で亡くなった隊長の弟なんかもいたりして早速いちゃもんつけられるとか、まあて定石通りなのですけど思い出せば、以前に取り上げた世界侵略:ロサンゼルス決戦 [Blu-ray]の主人公二人の設定は「茜さん一人分のプロフィール」だったことに気が付いてしまいます。茜は4年前の出動シーンでは詳細に描かれますが、彼女は元々どんな性格でどんな育ち方をしてきたとかさっぱり掴めないキャラクターでもあるのです。激しい戦闘時はともかく中学の制服を着用しただけで普通の女の子化してしまうような「エヴァ」に登場する綾波嬢やスタンレー嬢みたいな一種のサービス、サービス♡のような雰囲気を醸し出すこともなく、常に訓練を怠らない釈由美子は「孤独な背中で語る」というか迷える青年のようにも、はにかみ屋の少年のようにも見えるしそれでいて沙羅と一緒の時には柔らかな女性らしさも感じさせます。こういう一途なヒロイン像(かつての志緒美悦子サマみたい)はウチラのような昭和の特撮ファンにはおなじみですが、21世紀にもなってこんなのを見せられると陳腐に感じるストーリーの芝居でも人間が演るっていいなあ・・・という感慨になるから不思議です。そんで男の役者がこの主人公の設定だった場合には男社会における「男同士での以心伝心」につい気を取られるのでストイックな言動が観客の興味や共感を得るには至らないのでは? という「性差が与える印象」とでも言うような傾向に思い当ります。実のところ「オンナ主人公でゴジラ映画を撮る」というのは手塚監督のゴジラ映画をモノにする為の重要な戦略の一つであって、センチメンタルな趣味の発露というだけでは決してないのではと思いました。水野久美サマの首相役起用も当初は無かったそうで急きょの配役だったとか。あくまでも効果的に役者の芝居を見せるための「ヒロインが活躍」設定なのでしょうね。

しかし現在九州、特に熊本はぁぁ・・・

 エライことになってまして(2016年4月現在)。今度のゴジラ新作の7月には何とか地震災害等がおさまってくれることを望みたいものです。おりしも先週(4月15日)に今度の「シン・ゴジラ」はキャストが総勢328名って発表された日の夜に「前震」が起きちゃうってのもアレなんですが、それ以上に映画のおすすめポイントがゴジラなんだか忠臣蔵なんだか解からないノリになっている・・・ような気がするのが個人的に少ーし引いてしまいましたぁ(-_-;)